いが、その都度に女中に頼んで硯箱を借りるような家もある。その用心のために、古風の矢立などを持参してゆく人もあった。わたしなども小さい硯や墨や筆をたずさえて行った。もちろん、万年筆などはない時代である。
こういう不便が多々ある代りに、むかしの温泉宿は病を養うに足るような、安らかな暢《の》びやかな気分に富んでいた。今の温泉宿は万事が便利である代りに、なんとなくがさ[#「がさ」に傍点]ついて落着きのない、一夜どまりの旅館式になってしまった。一利一害、まことに已《や》むを得ないのであろう。
四
万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬら[#「ぬらぬら」に傍点]する。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟《ひっきょう》、浴客の少かったためでもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗る窮屈であった。
電灯のない時代はもちろん、
前へ
次へ
全18ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング