温泉雑記
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)お出《い》で
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|回《まわ》り
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)がさ[#「がさ」に傍点]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ほと/\
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一
ことしの梅雨も明けて、温泉場繁昌の時節が来た。この頃では人の顔をみれば、この夏はどちらへお出《い》でになりますと尋ねたり、尋ねられたりするのが普通の挨拶になったようであるが、私たちの若い時――今から三、四十年前までは決してそんなことはなかった。
もちろん、むかしから湯治にゆく人があればこそ、どこの温泉場も繁昌していたのであるが、その繁昌の程度が今と昔とはまったく相違していた。各地の温泉場が近年著るしく繁昌するようになったのは、何といっても交通の便が開けたからである。
江戸時代には箱根の温泉まで行くにしても、第一日は早朝に品川を発《た》って程ヶ谷か戸塚に泊る、第二日は小田原に泊る。そうして、第三日にはじめて箱根の湯本に着く。ただしそれは足の達者な人たちの旅で、病人や女や老人の足の弱い連れでは、第一日が神奈川泊り、第二日が藤沢、第三日が小田原、第四日に至って初めて箱根に入り込むというのであるから、往復だけでも七、八日はかかる。それに滞在の日数を加えると、どうしても半月以上に達するのであるから、金と暇とのある人々でなければ、湯治場めぐりなどは容易に出来るものではなかった。
江戸時代ばかりでなく、明治時代になって東海道線の汽車が開通するようになっても、先《ま》ず箱根まで行くには国府津《こうづ》で汽車に別れる。それから乗合いのガタ馬車にゆられて、小田原を経て湯本に着く。そこで、湯本泊りならば格別、更に山の上へ登ろうとすれば、人力車か山駕籠《やまかご》に乗るのほかはない。小田原電鉄が出来て、その不便がやや救われたが、それとても国府津、湯本間だけの交通に止まって、湯本以上の登山電車が開通するようになったのは大正のなかば頃からである。そんなわけであるから、一泊でもかなりに気忙《きぜわ》しい。いわんや日帰りに於てをやである。
それが今日では、一泊はおろか、日帰りでも悠々と箱根や熱海に遊んで来ることが出来るようになったのであるから、鉄道省その他の宣伝と相待《あいま》って、そこらへ浴客が続々吸収せらるるのも無理はない。それと同時に、浴客の心持も旅館の設備なども全く昔とは変ってしまった。
いつの世にも、温泉場に来るものは病人と限ったわけではない。健康の人間も遊山《ゆさん》がてらに来浴するのではあるが、原則としては温泉場は病を養うところと認められ、大体において病人の浴客が多かった。それであるから、入浴に来る以上、一泊や二泊で帰る客は先ず少い。短くても一週間、長ければ十五日、二十日、あるいは一月以上も滞在するのは珍しくない。私たちの若いときには、江戸以来の習慣で、一週間を一|回《まわ》りといい、二週間を二回りといい、既に温泉場へゆく以上は、少くも一回りは滞在して来なければ、何のために行ったのだか判らないということになる。二回りか三回り入浴して来なければ、温泉の効目はないものと決められていた。
たとい健康の人間でも、往復の長い時間をかんがえると、一泊や二泊で引揚げて来ては、わざわざ行った甲斐《かい》がないということにもなるから、少くも四、五日や一週間は滞在するのが普通であった。
二
温泉宿へ一旦《いったん》踏み込んだ以上、客もすぐには帰らない。宿屋の方でも直《す》ぐには帰らないものと認めているから、双方ともに落着いた心持で、そこにおのずから暢《のび》やかな気分が作られていた。
座敷へ案内されて、まず自分の居どころが決まると、携帯の荷物をかたづけて、型のごとくに入浴する。そこで一息ついた後、宿の女中にむかって両隣の客はどんな人々であるかを訊《き》く。病人であるか、女づれであるか、子供がいるかを詮議した上で、両隣へ一応の挨拶にゆく。
「今日からお隣へ参りましたから、よろしく願います。」
宿の浴衣《ゆかた》を着たままで行く人もあるが、行儀の好い人は衣服をあらためて行く。単に言葉の挨拶ばかりでなく、なにかの土産《みやげ》を持参するのもある。前にもいう通り、滞在期間が長いから、大抵の客は甘納豆とか金米糖とかいうたぐいの干菓子をたずさえて来るので、それを半紙に乗せて盆の上に置き、御退屈でございましょうからといって、土産のしるしに差出すのである。
貰った方でもそのままには済まされないから、返礼のしるしとして自分が携帯の菓子類を贈る。携帯品のない場合には、その土地の羊羹《ようかん
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