のことだとお久は云った。
「わたくしが若旦那様に傷を付ければ、どうなるのでございます。」と、年の若いお菊は顫えながら訊いた。
「約《つま》り若旦那がお前と密通していて、お前が心中を仕掛けたと云うことになる。そうすれば、若旦那も離縁になる。それがお店の為でもあり、お嬢さんの為でもある。勿論、皆なが承知のことだから、決してお前に科《とが》も難儀もかけまい。それを首尾よく仕負うせれば、お前もお暇になる代りに、十両のお金と別にお嬢さんの黄八丈のお小袖を下さる。お前それでも忌か。」と、お久は黄八丈という詞《ことば》に少し力を入れて低声《こごえ》で云い聞かせた。
この春お熊が母と一所に回向院のお開帳へ参詣した時に、お菊も供をして行った。お熊の黄八丈の小袖が群集の中でも眼についた。店へ帰ってからお菊は嘆息を吐いてお久に囁いた。
「妾《わたし》も一生に一度でも可《い》いから、あんなお小袖を着て見たい。」
お久はそれを能《よ》く記憶していて、今度の褒美に黄八丈の小袖を懸けたのであった。十両の金よりも、黄八丈がお菊の魂を唆かした。しかしそんな大それたことを引受けて可《い》いか悪いか、彼女《かれ》にも容易に分別が付かなかった。
「又四郎は心の好《よ》くない者だから離縁したいと思っているが、そこには何かの科《とが》がなければならない。お前が唯少しの微傷《かすりきず》[#ルビの「かすりきず」は底本では「かすりきづ」]を負わせてくれれば可《い》い。何の相手を殺せばこそ主殺しにもなろうが、ほんの微傷を付けた位のことは別に仔細もない。妾《わたし》達が呑込んでいて何事も内分に済ませる。あんな者に一生添わせて置いては、娘が如何にも可哀想だから、お前もそこを察して……この通り、主人が手をついて頼みます。」と、お常は鼻を詰らせて口説いた。
あんな者に添わせて置いては娘が可哀想だ……これもお菊の心を動かした。若旦那の又四郎は主人として別に不足もない。入婿という遠慮もあろうが、眼下《めした》の者に対しても物柔かで、ついぞ主人風を吹かしたことも無い。暴《あら》い声で叱ったこともない。しかしそれを若いお内儀さんのお婿として看る時にはお菊の眼も又違って、平生《ふだん》から若いお内儀さんの不運をお気の毒だと思わないでもなかった。第一に若旦那は今年三十九で若いお内儀さんは二十三だという。その時代に於ては十六も年の
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