身にしみて来た。和国橋の袂に一本しょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と立っている柳が顫えるように弱く靡いて、秋の寒さはその痩せ衰えた影から湧き出すように思われた。お菊は自分の身体を抱くように両袖をしっかり[#「しっかり」に傍点]掻き合せた。
「寧《いっ》そもう家へ逃げて帰ろうかしら、それとも長助どんに相談しようかしら。」
 お菊は思い余った胸を抱えて、何時《いつ》までもうっかり[#「うっかり」に傍点]と立っていた。彼女《かれ》は唯《た》った今、お内儀《かみ》さんのお常と朋輩のお久とから世に怖しいことを自分の耳へ吹き込まれたのであった。それは婿の又四郎に無理心中を仕掛けて呉れと云う相談で、彼女《かれ》も一時は吃驚《びっくり》して返事に困った。
 白子屋の主人庄三郎は極めて人の好《い》い、何方《どっち》かと云えば薄ぼんやりした質《たち》の人物で、家内のことは女房のお常が総《すべ》て切って廻していた。商売のことは手代の忠七が総て取仕切って引受けていた。お常は今年四十九の古女房であったが、若い時からの華美好《はでずき》で、その時代の商人《あきんど》の女房には似合わしからない贅沢三昧に白子屋の身代を殆ど傾け尽して了った。荷主には借金が嵩んで、どこの山からも荷を送って来なくなった。このままでいれば店を閉めるより他はないので、お常は一人娘のお熊が優れて美しいのを幸いに、持参金附の婿を探して身代の破綻《ほころび》を縫おうとした。数の多い候補者の中でお常の眼識《めがね》に叶った婿は、大伝馬町の地主弥太郎が手代又四郎という男で、彼は五百両という金の力で江戸中の評判娘の夫になろうと申込んで来た。
 お常は承知した。庄三郎は女房の御意次第で別に異存はなかった。しかし本人のお熊は納得しなかった。お熊は下女のお久の取持《とりもち》で手代の忠七と疾《と》うから起誓《きしょう》までも取交している仲であった。今更ほかの男を持っては忠七に済まないと彼女《かれ》は泣いて拒んだが、今のお常に取っては娘よりも恋よりも五百両の金が大切であった。彼女《かれ》は母の威光で娘を口説き伏せた。主《しゅう》の威光で手代を圧《おさ》え付けた。二人は泣いて諦めるより他はなかった。縁談は滑るように進んで、婚礼の日は漸次《しだい》に近づいた。三十四の又四郎と十八のお熊とが表向に夫婦の披露をしたのは、今から五年前の享保七年の冬で
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