彼は俄かに口をつぐんで、わたし達の顔をじっと眺めていた。普通の立ち話以外に何かの子細があるらしいことを、彼もすぐに覚ったらしい。飛んだ邪魔者が来たとは思ったが、わたしも笑いながら挨拶した。
「君と今ふざけていたのは誰だね。」
「え。あれは……。」と、野童は冬坡の顔をみながら再び口をつぐんだ。
「ああ、それじゃあ冬坡君のおなじみかね。」
わたしは再び見かえると、女の姿はいつの間にか消えてしまって、あたりを包む夕闇の色はいよいよ深く迫って来た。
野童はおとといの晩わたしに向って、冬坡君は弁天さまへ夜詣りをする訳があると言った。してみると、彼は冬坡について何かの秘密を知っているらしい。その秘密はかの芸者に関係することではあるまいか。しかしそれだけのことならば、いかに内気の青年であるといっても、冬坡が堅く秘密を守るほどの事もあるまい。いずれにしても、野童と冬坡とは別々に取調べる必要がある。ふたりが鼻を突き合せていては、その取調べに不便があると思ったので、わたしはここで、ひとまず冬坡を手放すことにした。
二つ三つ冗談を言って、わたしはそのまま行きかけると、野童は曲り角まで追って来て、そっと訊いた。
「あなたは今、冬坡君を何か調べておいでになったのですか。」
「うむ、少し訊きたいことがあって……。君にも訊きたいことがあるのだが、今夜わたしの家へ来てくれないか。」
「まいります。」
わたしは家へ帰って風呂にはいって、ゆう飯を食ってしまったが、野童はまだ来なかった。そのうちに細かい雪が降り出して来たと、家内の者が言った。この春はここらに珍らしいほど降らなかったのであるから、もう降り出す頃であろうと思いながら、薄暗い電燈の下で炬燵《こたつ》にはいっていると、外の雪は音もなしに降りつづけているらしかった。
九時過ぎになって、野童が来た。いつもは遠慮なしに炬燵にはいって差向いになるのであるが、今夜はなんだか固くなって、平生よりも行儀よく坐っていた。炬燵にはいれと勧めても、彼は躊躇しているらしいので、わたしは妻に言いつけて、彼に手あぶりの火鉢をあたえさせた。
「とうとう降り出したようだな。」と、わたしは言った。
「降って来ました。今度はちっと積もるでしょう。」
「さっきの芸妓はなんという女だね。」
野童は暗い顔をいよいよ暗くして答えた。
「染吉です。」
「ああ、染吉か。」とわた
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