る。彼に対して職権を示そうなどとは勿論かんがえていないので、わたしは個人的に打解けて訊いた。
「君はおとといの晩、あの弁天池のところで何をしていたのかね。」
彼はだまっていた。
「君はスコープで何か掘っていたのじゃないかな。」と、わたしは畳みかけて訊いた。
「いいえ。」
「では、夜ふけにあすこへ行って、何をしていたのかな。」
彼はまた黙ってしまった。
「君はゆうべもあの池へ行ったかね。」
「いいえ。」
「なんでも正直に言ってくれないと困る。さもないと、わたしは職務上、君を引致《いんち》しなければならないことになる。それは私も好まないことであるから、正直に話してくれ給え。ゆうべはともあれ、おとといの晩は何をしに行ったのだね。」
冬坡はやはり黙っているのである。こうなると、私も少しく語気を改めなければならなくなった。
「君はふだんに似合わず、ひどく強情だな。隠していると、君のためにならないぜ。実は警察の方では、清月亭のむすめは他殺と認めて、君にも疑いをかけているのだ。」と、わたしは嚇すように言った。
「そうかも知れません。」と、彼は低い声で独り言のようにいった。
「それじゃあ君は何か疑われるような覚えがあるのかな。」
言いかけて私はふと見かえると、折れ曲った生垣の角から一人の女の顔が見えた。女は顔だけをあらわして、こちらを窺っているらしかった。もう暮れかかっているので、その人相はよく判らないが、ゆう闇のなかにも薄白く浮かんでいる彼女の顔が、どうも堅気の女ではないらしい。わたしはそう直覚しながら、さらによく見定めようとする時、不意にわっ[#「わっ」に傍点]という声がきこえた。何者かがうしろから彼女を嚇したのである。つづいて若い男の笑い声がきこえて、角から現われ出たのは野童であった。
彼らとわたし達との距離は四、五間に過ぎないのであるから、このいたずら騒ぎのために、今まで隠されていた女の姿も自然にわたしの目先へ押出された。女はコートを着て、襟巻に顔の半分を深く埋めていたが、それが町の芸者であるらしいことは大抵察せられた。野童の家はこの町でも大きい店で、彼も相当に道楽をするらしいから、かねてこの芸者を識っているのであろう。そう思っているうちに、野童の方でもわたし達の姿を見つけて、足早に進み寄って来た。
「今晩は……。やあ、冬坡君もいたのか。」
そうは言ったものの、
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