ならしめようと苦心した徳川幕府の当路者《とうろしゃ》と、彼ら自身の祖先とに対して、努力の労を感謝せねばなるまい。
今日は品川荒神《しながわこうじん》の秋季大祭とかいうので、品川の町から高輪へかけて往来が劇《はげ》しい。男も通る、女も通る、小児《こども》も通る。この人々の阿父《おとっ》さんや祖父《おじい》さんは、六十年|前《ぜん》にここを過ぎて、工事中のお台場を望んで、「まあ、これが出来れば大丈夫だ」と、心強く感じたに相違ない。しかもそれは殆ど何の用を為《な》さず、空しく渺茫《びょうぼう》たる海中に横わっているのである。
荒神様へ詣《まい》るもよい。序《ついで》にここを通ったらば、霎時《しばらく》この海岸に立って、諸君が祖先の労苦を忍《しの》んでもらいたい。しかし電車で帰宅《かえり》を急ぐ諸君は、暗い海上などを振向いても見まい。
四 日比谷公園
友人と日比谷公園を散歩する。今日は風もなくて暖い。芝原に二匹の犬が巫山戯《ふざけ》ている。一匹は純白で、一匹は黒斑《くろぶち》で、どこから啣《くわ》えて来たか知らず、一足の古《ふる》草履《ぞうり》を奪合《ばいあ》って、追いつ追われつ、起きつ転《まろ》びつ、さも面白そうに狂っている。
「見給え、実に面白そうだね」と友人がいう。「むむ、いかにも無心に遊んでるのが可愛《かあい》い」といいながらふと見ると、白には頸環《くびわ》が附いている。黒斑の頸には何もない。「片方《かたっぽ》は野犬だぜ」というと、友人は無言にうなずいて、互に顔を見合せた。
今、無心に睦《むつま》じく遊んでいる犬は、恐《おそら》く何にも知らぬであろうが、見よ、一方には頸環がある。その安全は保障されている。しかも他の一方は野犬である。何時《なんどき》虐殺の悲運に逢わないとも限らない。あるいは一時間|乃至《ないし》半時間の後《のち》には、残酷な犬殺しの獲物《えもの》となってその皮を剥《は》がれてしまうかも知れない。日暖き公園の真中《まんなか》で、愉快に遊び廻っている二匹の犬にも、これほどの幸不幸がある。
犬は頸環に因《よっ》て、その幸と不幸とが直ちに知られる。人間にも恐らく眼に見えない運命の頸環が附いているのであろうが、人も知らず、我も知らず、いわゆる「一寸先は闇」の世を、何《いず》れも面白そうに飛び廻っているのである。我々もこうして暢気《のんき
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