うした古い寺には有名の壁画なども沢山保存されていたのであろうが、今はどうなったか判るまい。一羽の白い鳩がその旧蹟を守るように寺の門前に寂しくうずくまっているのを、みんなが珍しそうに指さしていた。町を通りぬけて郊外らしいところへ出ると、路の両側は仏蘭西特有のブルヴァーになって、大きい栗の木の並木がどこまでも続いている。栗の花はもう散り尽して、その青い葉が白い土のうえに黒い影を落している。木の下には雛芥子の紅い小さい花がしおらしく咲いている。ここらへ来ると、時々は人通りがあって、青白い夏服をきた十四五の少女が並木の下を俯向きながら歩いてゆく。かの女は自動車の音におどろいたように顔をあげると、車上の人達は帽子を振る。少女は嬉しそうに微笑みながら、これも頻りにハンカチーフを振る。砂煙が舞い上って、少女の姿がおぼろになった頃に、自動車も広い野原のようなところに出た。
 戦争前には畑になっていたらしいが、今では茫々たる野原である。原には大きい塹壕のあとが幾重にも残っていて、ところどころには鉄条網も絡み合ったままで光っている。立木は殆どみえない。眼のとどく限りは雛芥子の花に占領されて、血を流したように一面に紅い。原に沿うた長い路をゆき抜けると、路はだんだんに登り坂になって、石の多い丘の裾についた。案内者はここが百八高地というものであると教えてくれた。自動車から卸されて、思い思いに丘の方へ登ってゆくと、そこには絵葉書や果物など売る店が出ている。ここへ来る見物人を相手の商売らしい。同情も幾分か手伝って、どの人も余り廉くない絵葉書や果物を買った。丘の上にも塹壕がおびただしく続いていて、そこらにも鉄条網や砲弾の破片が見出された。丘の上にも立木はない。石の間には矢はり雛芥子が一面に咲いている。戦争が始まってから四年の間、芥子の花は夏ごとに紅く咲いていたのであろう。敵も味方もこの花を友として、苦しい塹壕生活を続けていたのであろう。そうして、この優しい花を見て故郷の妻子を思い出したのもあろう。この花よりも紅い血を流して死んだのもあろう[#「あろう」は底本では「ああろう」]。ある者は生き、ある者はほろび、或者は勝ち、ある者は敗れても、花は知らぬ顔をして今年の夏も咲いている。
 これに対して、ある者を傷み、ある者を呪うべきではない。勿論、商船の無制限撃沈を試みたり、都市の空中攻撃を企てたりした責任者はある。併しながら戦争そのものは自然の勢である。欧州の大勢が行くべき道を歩んで、ゆくべき所へゆき着いたのである。その大勢に押流された人間は、敵も味方も悲惨である。野に咲く百合を見て、ソロモンの栄華を果敢なしと説いた神の子は、この芥子の花に対して何と考えるであろう。
 坂を登るのでいよいよ汗になった我々は、干枯びたオレンジで渇を癒していると、汽車の時間が迫っているから早く自動車に乗れと催促される。二時間も延着した祟りで、ゆっくり落付いてはいられないと案内者が気の毒そうに云うのも無理はないので、どの人もおとなしく自動車に乗り込むと、車は待兼ねたように走り出したが、途中から方向をかえて、前に来た路とはまた違った町筋をめぐってゆく。路は変っても、やはり同じ破壊の跡である。プレース・ド・レパプリクの噴水池は涸れ果てて、まん中に飾られた女神の像の生白い片腕がもがれている。
 停車場へ戻って自動車を降りると、町の入口には露店をならべて、絵葉書や果物のたぐいを売っている男や女が五六人見えた。砲弾の破片で作られた巻莨の灰皿や、独逸兵のヘルメットを摸したインキ壺なども売っている。そのヘルメットは剣を突き刺したり、斧を打ち込んだりしてあるのが眼についた。摸造品ばかりでなく、ほん物の独逸将校や兵卒のヘルメットを売っているのもある。おそらく戦場で拾ったものであろう。その値をきいたら九十フランだと云った。勿論、云い値で買う人はない。或人は五十フランに値切って二つ買ったとか話していた。
『なにしろ暑い。』
 異口同音に叫びながら、停車場のカフエーへ駆け込んで、一息にレモン水を二杯のんで、顔の汗とほこりを忙しそうに拭いていると、四時三十分の汽車がもう出るという。あわてて車内に転がり込むと、それが又延着して、八時を過ぎる頃にようやく巴里に送り還された。

 この紀行は大正八年の夏、巴里の客舎で書いたものである。その当時、彼のランスの戦場のような、寧ろそれ以上のおそろしい大破壊を四年後の東京のまん中で見せ付けられようとは、思いも及ばないことであった。よそ事のように眺めて来た大破壊のあとが、今やありありと我が眼のまえに拡げられているではないか。わたしはまだ異国の夢が醒めないのではないかと、ときどきに自分を疑うことがある。(大正十二年十月、追記)
[#地から2字上げ](大正八年)



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