ンといっておきます。――そのアンというのはまだ十九か二十歳《はたち》で、原住民には珍らしい色白の綺麗な俳優で、なんでも本当の原住民ではない、原住民とイタリアとの混血児だとかいう噂《うわさ》でしたが、なにしろ声もいい、顔も美しいというので、それが一座の花形で、原住民はもちろん、外国人のあいだにも非常に評判がよかったのです。ところが今度の興行にはアンの姿が舞台に見えないので、失望する者もあり、不思議に思う者もあって、いろいろ詮議《せんぎ》してみると、アンは行くえ不明になってしまったということが確かめられたんです。では、どうして行くえ不明になったかというと、それにはまた不思議な話があるんです。」
 若い美しい俳優の死――それが僕の好奇心をまたそそって、熱心に耳を傾けさせた。早瀬君は人通りの少ない海岸通りの方へ足を向けながら話しつづけた。
「アンは去年の三月ごろここへ廻って来たときに、或る白人の女と親しくなったんです。その女はスペイン人で、あまり評判のよくない、一種の高等淫売でもしているような噂のある女でしたが、年は二十七、八で容貌《きりょう》はなかなかいい。それがひどくアンに惚れ込んで、どうして近付いたか知らないが、とうとう二人のあいだには恋愛関係が結び付けられてしまったんです。さあ、そうすると、両方とも夢中になってしまって、ことにアンは、年上でこそあれ白人の美しい女と恋したので、ほとんど盲目的にのぼせあがって、いくらか持っていた貯金もみんな使ってしまう、女の方でも腕環や指環を売り飛ばして逢曳きの費用を作るという始末で、男も女もしまいには裸になってしまったんです。
 一座がここの興行を終って、半島の各地を打廻っているあいだも、女はアンのあとをどこまでも追って、どうしても離れようとしない。一座の者も心配して、アンに意見もしたそうですが、年うえ女に執念ぶかく魅《み》こまれたアンは、誰がなんと言っても思い切ろうとはしない。それから五月ごろに再びシンガポールに来て、さらに地方巡業に出て、九月ごろにまた来て、また地方巡業に出る。それを繰返している間も、女はいつでも影のようにアンに付きまとっていて、二人の恋はいよいよ熱烈の度をますばかりで、周囲の者も手のつけようがなかったそうです。いくら人気者だの花形だのといっても、アンはたかがスマトラの原住民俳優ですから、その取り前も知れたものです。それが白人の女をかかえて歩くのですから、とても舞台で稼ぐだけでは足りるはずがありません。一座の者にはもちろん、世間にもだんだんに不義理の借金もかさんで来て、もう二進《にっち》も三進《さっち》も行かなくなったんです。」
 言いかけて、早瀬君は突然に僕に訊いた。
「あなたはこのシンガポールの歴史をご存じですか。」
 僕もあまりくわしいことは知らない。しかしこの土地はその昔、原住民の酋長《しゅうちょう》によって支配せられ、シナの明朝《みんちょう》に封ぜられて王となって、爾来《じらい》引きつづいて燕京《えんけい》に入貢《にゅうこう》していたが、のちにシャムに併合せられた。それをまた、原住民の柔仏族《じゅうぶつぞく》の酋長が回復して、しばらくこの柔仏族によって統治されているうちに、千八百十九年に英国東印度会社から派遣されたトーマス・スタムフォード・ラッフルスがここを将来有望の地と認めて、柔仏の王と約束して一時金六十万弗と別に年金二万四千弗ずつを納めることにして、遂に英国の国旗のもとに置いたのである。これだけのことは郵船会社の案内記にも書いてあるので、僕はその受け売りをして聞かせると、早瀬君はうなずいた。
「そうです、そうです。わたしもそれ以上のことはよく知りませんが、今もあなたが仰しゃった柔仏の王――朱丹というそうです。――それがこの事件に関係があるんです。もちろん、ラッフルスがこの土地を買収したのは、今から百年ほどの昔で、その当時の朱丹が生きているはずはないんですが、その魂はまだ生きていたとでも言いましょうか。なにしろ、アンが行くえ不明になったのは、その朱丹の墓に関係があるんです。」
「墓をあばきに行ったんじゃありませんか。」と、僕は中途から喙《くち》をいれた。
「まったくその通りです。アンがなぜそんなことをしたかというと、ここらの原住民の間にはこういう伝説が残っているんです。この土地を英国人に売り渡した柔仏の朱丹は、ラッフルスから受取った六十万弗の中から二十万弗を同種族のものに分配して、残る十万弗で自分の墳墓《ふんぼ》を作った。自分は英国から二万四千弗の年金を受けているので、それで生活に不足はない。差引き三十万弗だけは自分の死ぬまで手を着けずに大事にしまっておいて、いよいよ死ぬという時に、堅固な鉄の箱の底にその三十万弗を入れて自分の墳墓の奥に葬らせた。この種族の習いとは
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