もあったが、うそか本当か判らない。いずれにしても、銀盤とか玉盤とか形容するよりも、銅盤とか銅鏡とかいう方が当っているらしい。それが高く濶《ひろ》い碧空《あおぞら》に大きく輝いているのである。
この家の主人夫婦、男の児《こ》、女の児、主人の弟、そのほかに幾人の雇人らが袖をつらねて門前に出た。彼らは形を正して、その月を拝していた。それから私たちを母屋へ招じ入れて、中秋の宴を開くことになったが、案の如くに種々の御馳走が出た。豚、羊、鶏、魚、野菜のたぐい、あわせて十種ほどの鉢や皿が順々に運び出されて、私たちは大いに満腹した。そうしてお世辞半分に「好々的《ホーホーデー》」などと叫んだ。
宴会は八時半頃に終って、私たちは愉快にこの席を辞して去った。中には酩酊して、自分たちの室へ帰ると直《す》ぐに高鼾《たかいびき》で寝てしまった者もあった。あるいは満腹だから少し散歩して来るという者もあった。私も容易に眠られなかった。それは満腹のためばかりでなく、右の奥の下歯が俄に痛み出したのである。久し振りで種々の御馳走にあずかって、いわゆる餓虎の肉を争うが如く、遠慮もお辞儀もなしに貪《むさぼ》り食らった祟《たた》りが忽《たちま》ちにあらわれ来ったものと知られたが、軍医部は少し離れているので、薬をもらいに行くことも出来ない。持合せの宝丹を塗ったぐらいでは間に合わない。私はアンペラの敷物の上にころがって苦しんだ。
歯はいよいよ痛む。いっそ夜風に吹かれたら好いかも知れないと思って、私はよほど腫《は》れて来たらしい右の頬をおさえながら、どこを的ともなしに門外まで迷い出ると、月の色はますます明るく、門前の小川の水はきらきら[#「きらきら」に傍点]と輝いて、堤の柳の葉は霜をおびたように白く光っていた。
わたしは夜なかまでそこらを歩きまわって、二度も歩哨《ほしょう》の兵士にとがめられた。宿へ帰って、午前三時頃から疲れて眠って、あくる朝の六時頃、洗面器を裏手の畑へ持ち出して、寝足らない顔を洗っていると、昨夜来わたしを苦しめていた下歯一枚がぽろり[#「ぽろり」に傍点]と抜け落ちた。私は直ぐにそれを摘《つま》んで白菜《パイサイ》の畑のなかに投げ込んだ。そうして、ほっ[#「ほっ」に傍点]としたように見あげると、今朝の空も紺青に高く晴れていた。
もう一つの思い出は、右の奥の上歯一枚である。
大正八年八月、わたしが欧洲から帰航の途中、三日ばかりは例のモンスーンに悩まされて、かなり難儀の航海をつづけた後、風雨もすっかり[#「すっかり」に傍点]収まって、明日はインドのコロムボに着くという日の午後である。
私はモンスーン以来痛みつづけていた右の奥歯のことを忘れたように、熱田丸の甲板を愉快に歩いていた。船医の治療を受けて、きょうの午頃から歯の痛みも全く去ったからである。食堂の午飯も今日は旨く食べられた。暑いのは印度洋であるから仕方がない。それでも空は青々と晴れて、海の風がそよそよ[#「そよそよ」に傍点]と吹いて来る。暑さに茹《ゆだ》って昼寝でもしているのか、甲板に散歩の人影も多くない。
モンスーンが去ったのと歯の痛みが去ったのと、あしたは印度へ着くという楽しみとで、私は何か大きい声で歌いたいような心持で、甲板をしばらく横行濶歩していると、偶然に右の奥の上歯が揺ぐように感じた。今朝まで痛みつづけた歯である。指で摘んで軽く揺すってみると、案外に安々と抜けた。
なぜか知らないが、その時の私はひどく感傷的になった。何十年の間、甘い物も食った。まずい物も食った。八百善の料理も食った。家台店のおでんも食った。その色々の思い出がこの歯一枚をめぐって、廻り灯籠のように私の頭のなかに閃《ひらめ》いて通った。
私はその歯を把《と》って海へ投げ込んだ時、あたかも二尾の大きい鱶《ふか》が蒼黒い脊をあらわして、船を追うように近づいて来た。私の歯はこの魚腹に葬られるかと見ていると、鱶はこんな物を呑むべくあまりに大きい口をあいて、厨から投げあたえる食い残りの魚肉を猟《あさ》っていた。私の歯はそのまま千尋の底へ沈んで行ったらしい。わたしはまだ暮れ切らない大洋の浪のうねりを眺めながら、暫《しばら》くそこに立尽していた。
前の下歯と後の上歯と、いずれもそれが異郷の出来事であったために、記憶に深く刻まれているのであろうが、こういう思い出はとかくにさびしい。残る下歯六枚については、あまり多くの思い出を作りたくないものである。[#地から1字上げ](昭和十二年七月)
底本:「岡本綺堂随筆集」岩波文庫、岩波書店
2007(平成19)年10月16日第1刷発行
2008(平成20)年5月23日第4刷発行
底本の親本:「思ひ出草」相模書房
1937(昭和12)年10月初版発行
初出:「報知新聞
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