はなしの話
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)俄《にわか》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)むし[#「むし」に傍点]
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七月四日、アメリカ合衆国の独立記念日、それとは何の関係もなしに、左の上の奥歯二枚が俄《にわか》に痛み出した。歯の悪いのは年来のことであるが、今度もかなりに痛む。おまけに六日は三十四度という大暑、それやこれやに悩まされて、ひどく弱った。
九日は帝国芸術院会員が初度の顔合せというので、私も文相からの案内を受けて、一旦《いったん》は出席の返事を出しておきながら、更にそれを取消して、当夜はついに失礼することになった。歯はいよいよ痛んで、ゆるぎ出して、十一日には二枚ながら抜けてしまった。
私の母は歯が丈夫で、七十七歳で世を終るまで一枚も欠損せず、硬い煎餅《せんべい》でも何でもバリバリと齧《かじ》った。それと反対に、父は歯が悪かった。ややもすれば歯痛に苦《くるし》められて、上下に幾枚の義歯を嵌《は》め込んでいた。その義歯は柘植《つげ》の木で作られていたように記憶している。私は父の系統をひいて、子供の時から齲歯《むしば》の患者であった。
思えば六十余年の間、私はむし[#「むし」に傍点]歯のために如何ばかり苦められたかわからない。むし[#「むし」に傍点]歯は自然に抜けたのもあり、医師の手によって抜かれたのもあり、年々に脱落して、現在あます所は上歯二枚と下歯六枚、他はことごとく入歯である。その上歯二枚が一度に抜けたのであるから、上頤《うわあご》は完全に歯なしとなって、総入歯のほかはない。
世に総入歯の人はいくらもある。現にわたしの親戚知人のうちにも幾人かを見出すのであるが、たとい一枚でも二枚でも自分の生歯があって、それに義歯を取つけている中《うち》は、いささか気丈夫であるが、それがことごとく失われたとなると、一種の寂寥を覚えずにはいられない。大きくいえば、部下全滅の将軍と同様の感がある。
馬琴も歯が悪かった。『八犬伝』の終りに記されたのによると「逆上口痛の患ひ起りしより、年五十に至りては、歯はみな年々にぬけて一枚もあらずなりぬ」とある。馬琴はその原因を読書執筆の過労に帰しているが、単に過労のためばかりでなく、生来が歯質の弱い人であったものと察せられる。五十にして総入歯になった江戸時代の文豪にくらべれば、私などはまだ仕合せの方であるかも知れないと、心ひそかに慰めるの外はない。殊《こと》に江戸時代と違って、歯科の技術も大いに進歩している今日に生れ合せたのは、更に仕合せであると思わなければならない。それにしても、前にいう通り、一種寂寥の感は消えない。
私をさんざん苦めた後に、だんだんに私を見捨てて行く上歯と下歯の数々、その脱落の歴史については、また数々の思い出がある。それを一々語ってもいられず、聞いてくれる人もあるまいが、そのなかで最も深く私の記憶に残っているのは、奥歯の上一枚と下一枚の抜け落ちた時である。いずれも右であった。
北支事変の風雲急なる折柄、殊にその記憶がまざまざと甦《よみがえ》って来るのである。
明治三十七年、日露戦争の当時、わたしは従軍新聞記者として満洲の戦地へ派遣されていた。遼陽陥落の後、私たちの一行六人は北門外の大紙房《ターシーファン》という村に移って、劉という家の一室に止宿《ししゅく》していたが、一室といっても別棟の広い建物で、満洲普通の農家ではあるが、比較的清浄に出来ているので、私たちは喜んでそこに一月ほどを送った。
先年の震災で当時の陣中日記を焼失してしまったので、正確にその日をいい得ないが、なんでも九月の二十日前後とおぼえている。四十歳ぐらいの主人がにこにこ[#「にこにこ」に傍点]しながら這入《はい》って来て、今夜は中秋であるから皆さんを招待したいという。私たちは勿論承知して、今夜の宴に招かれることになった。
山中ばかりでなく、陣中にも暦日がない。まして陰暦の中秋などは我々の関知する所でなかったが、二、三日前から宿の雇人らが遼陽城内へしばしば買物に出てゆく。それが中秋の月を祭る用意であることを知って、もう十五夜が来るのかと私たちも初めて気がついた。それがいよいよ今夜となって、私たちはその御馳走に呼ばれたのである。ここの家は家族五人のほかに雇人六人も使っていて、先《ま》ず相当の農家であるらしいので、今夜は定めて御馳走があるだろうなどと、私たちはすこぶる嬉しがって、日の暮れるのを待ち構えていた。
きょうは朝から快晴で、満洲の空は高く澄んでいる。まことに申分のない中秋である。午後六時を過ぎた頃に、明月が東の空に大きく昇った。ここらの月は銀色でなく、銅色である。それは大陸の空気が澄んでいるためであると説明する人
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