には長曽我部氏《ちょうそかべし》がほとんど四国の大部分を占領していて、天正十三年、羽柴秀吉の四国攻めの当時には、長曽我部の老臣細川源左衛門尉というのが讃岐方面を踏みしたがえて、大いに上方《かみがた》勢を悩ましたと伝えられている。その源左衛門尉の部下に小袋喜平次秋忠というのがあって、それが僕の村の附近に小さい城をかまえていた。小袋ヶ岡という名はそれから来たので、岡とはいっても殆んど平地も同様で、場所によってはかえって平地より窪んでいるくらいだが、ともかくも昔から岡と呼ばれていたらしい。ここへ押寄せて来たのは浮田秀家と小西行長の両軍で、小袋喜平次も必死に防戦したそうだが、何分にも衆寡《しゅうか》敵せずというわけで、四、五日の後には落城して、喜平次秋忠は敵に生捕《いけど》られて殺されたともいい、姿をかえて本国の土佐へ落ちて行ったともいうが、いずれにしても、ここらでかなりに激しい戦闘が行なわれたのは事実であると、故老の口碑《こうひ》に残っている。
 ところで、その岡の中ほどに小袋明神というのがあった。かの小袋喜平次が自分の城内に祀っていた守護神で、その神体はなんであるか判らない。落城と同時に城
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