には長曽我部氏《ちょうそかべし》がほとんど四国の大部分を占領していて、天正十三年、羽柴秀吉の四国攻めの当時には、長曽我部の老臣細川源左衛門尉というのが讃岐方面を踏みしたがえて、大いに上方《かみがた》勢を悩ましたと伝えられている。その源左衛門尉の部下に小袋喜平次秋忠というのがあって、それが僕の村の附近に小さい城をかまえていた。小袋ヶ岡という名はそれから来たので、岡とはいっても殆んど平地も同様で、場所によってはかえって平地より窪んでいるくらいだが、ともかくも昔から岡と呼ばれていたらしい。ここへ押寄せて来たのは浮田秀家と小西行長の両軍で、小袋喜平次も必死に防戦したそうだが、何分にも衆寡《しゅうか》敵せずというわけで、四、五日の後には落城して、喜平次秋忠は敵に生捕《いけど》られて殺されたともいい、姿をかえて本国の土佐へ落ちて行ったともいうが、いずれにしても、ここらでかなりに激しい戦闘が行なわれたのは事実であると、故老の口碑《こうひ》に残っている。
 ところで、その岡の中ほどに小袋明神というのがあった。かの小袋喜平次が自分の城内に祀っていた守護神で、その神体はなんであるか判らない。落城と同時に城は焼かれてしまったが、その社《やしろ》だけは不思議に無事であったので、そのまま保存されてやはり小袋明神として祀られていた。僕の先祖もこの明神に華表《とりい》を寄進《きしん》したということが家の記録に残っているから、江戸時代までも相当に尊崇されていたらしい。それが明治の初年、ここらでは何十年振りとかいう大水《おおみず》が出たときに、小袋明神もまたこの天災をのがれることは出来ないで、神社も神体もみな何処かへ押流されてしまった。時はあたかも神仏混淆《しんぶつこんこう》の禁じられた時代で、祭神のはっきりしない神社は破却の運命に遭遇していたので、この小袋明神も再建を見ずして終った。その遺跡は明神跡と呼ばれて、小さい社殿の土台石などは昔ながらに残っていたが、さすがに誰も手をつける者もなかった。そこらには栗の大木が多いので、僕たちも子供のときには落葉を拾いに行ったことを覚えている。
 その小袋ヶ岡にこのごろ一種の不思議が起った――と、まあこういうのだ。なんでもかの明神跡らしいあたりで不思議な啼声がきこえる。はじめは蛙だろう、梟《ふくろう》だろうなどといっていたが、どうもそうではない。土の底から怪しい
前へ 次へ
全12ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング