身づくろいして立ちかけたが、又すこし躇躊《ちゅうちょ》した。前にもいう通り、この声と、かの僧との関係がはっきりしない以上、みだりに邪魔に出てよいか悪いか。自分が突然飛び出して行ったがために、僧が何かの迷惑を感じるようでも気の毒である。僧もそれを懸念《けねん》して、あらかじめ自分に注意したらしいのであるから、自分も騒がず、人をも驚かさず、何事も知らぬ顔をして過すのが、一夜の恩に報いるゆえんではあるまいか。こう思い直して叔父はまた坐った。
 僧はどこへ行って何をしているのか、いつまでも戻らなかった。怪しい声も時どきに聞えた。どう考えても、何かの怪物が歯をむき出して嘲《あざけ》り笑っているような、気味の悪い声である。もしや空耳《そらみみ》ではないかと、叔父は自分の臆病を叱りながら幾たびか耳を引っ立てたが、聞けば聞くほど一種の鬼気《きき》が人を襲うように感じられて、しまいには聞くに堪えられないように恐ろしくなって来た。
「ええ、どうでも勝手にしろ。」
 叔父は自棄《やけ》半分に度胸を据えて、ふたたび横になった。以前のように表をうしろにして、左の耳を木枕に当て、右の耳の上まで蒲団を引っかぶって、
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