ていた。それでもお杉はまだ深く彼を恐れようともしないで、そのままに自分の仕事をつづけようとすると、黒ん坊は猛然として飛びかかった。彼はお杉の腰を引っかかえて、どこへか攫《さら》って行こうとするらしいので、かれも初めて驚いて叫んだ。
「あれ、お父《とっ》さん、おっ母さん……。早く来てください。」
その声を聞きつけて、源兵衛夫婦は内から飛んで出た。見るとこの始末で、黒ん坊はほの暗い夕闇のうちに火のような目をひからせながら、無理無体に娘を引っかかえて行こうとする。お杉は栗の大木にしがみ付いて離れまいとする。たがいに必死となって争っているのであった。
「こん畜生……。」
源兵衛はすぐに内へ引っ返して、土間にある大きい斧《おの》を持ち出して来たかと思うと、これも野獣のように跳《おど》り狂って、黒ん坊の前に立ちふさがった。まっこうを狙って撃ちおろした斧は外《そ》れて、相手の左の頸《くび》筋から胸へかけて斜めにざくりと打ち割ったので、彼は奇怪な悲鳴をあげながら娘をかかえたままで倒れた。それでもまだ娘を放そうとはしないので、源兵衛は踏み込んで又打つと、怪物の左の手は二の腕から斬り落された。お杉はようよう振り放して逃げかかると、彼は這いまわりながら又追おうとするので、源兵衛も焦《じ》れてあせって滅多《めった》打ちに打ちつづけると、かれは更に腕を斬られ、足を打落されて、ただものすごい末期《まつご》の唸《うな》り声を上げるばかりであった。
「これだから畜生は油断がならねえ。」と、源兵衛は息をはずませながら罵《ののし》った。
「お杉をさらって行って、どうするつもりなんだろうねえ。」と、お兼は不思議そうに言った。
その一|刹那《せつな》に謎は解けた。
黒ん坊が娘を奪って行こうとするのは、あながちに不思議とはいえないのである。夫婦はだまって顔をみあわせた。
「おっ母さん。怖いねえ。」と、お杉は母に取りすがってふるえ出した。
あたかもそこへ杣仲間が二人来あわせたので、源兵衛はかれらに手伝ってもらって、黒ん坊の始末をすることになった。
彼はまだ死に切れずに唸っているので、源兵衛は研《と》ぎすました山刀を持って来てその喉笛を刺し、胸を突き透した。こうして息の絶えたのを見とどけて、三人は怪物の死骸を表へ引摺り出した。
「谷へほうり込んでしまえ。」
前には何十丈の深い谷があるので、死骸はそこへ投げ込まれてしまった。二人が帰ったあとで、女房は小声で言った。
「おまえさんがつまらない冗談をいったから悪いんだよ。」
源兵衛はなんにも答えなかった。
四
あくる朝、源兵衛は谷のほとりへ行ってみると、黒ん坊の死骸は目の下にかかっていた。二丈余りの下には松の大木が枝を突き出していた。死骸はあたかもその上に投げ落されたのである。勿論、谷底へ投げ込むつもりであったが、ゆう闇のために見当がちがって、死骸は中途にかかっていることを今朝になって発見したのである。二丈あまりではあるが、そこは足がかりもない断崖で、下は目もくらむほどの深い谷であるから、その死骸には手を着けることが出来なかった。
「畜生……。」と、源兵衛は舌打ちした。お兼もお杉も覗きに来て、互いにいやな顔をしていた。
それはまずそれとして、さらにこの一家の心を暗くしたのは、かの縁談の一条であった。黒ん坊のことが杣仲間の口から世間にひろまると、婿の方では二の足を蹈《ふ》むようになった。源兵衛が黒ん坊にむかって冗談の約束をしたことなどは誰も知らないのであるが、なにしろ黒ん坊のような怪物に魅《みこ》まれた女と同棲するのは不安であった。その執念がどんな祟《たた》りをなさないとも限らない。又その同類に付け狙われて、どんな仕返しをされないとも限らない。婿自身ばかりでなく、その両親や親類たちも同じような不安にとらわれて、結納までも済ませた婚礼を何のかのと言い延ばしているうちに、黒ん坊の噂はそれからそれへと伝わったので、婿の家でもいよいよ忌気《いやき》がさして、その年の盂蘭盆《うらぼん》前に断然破談ということになってしまった。
さてその黒ん坊の死骸はどうなったかというと、むろん日を経るにしたがって、その肉は腐れただれて行った。毛の生えている皮膚も他の獣《けもの》の皮とは違っているとみえて、鴉《からす》や他の鳥類についばまれた跡が次第に破れて腐れて、今はほとんど骨ばかりとなった。その骸骨も風にあおられ、雨に打たれて、ばらばらにくずれ落ちてしまったが、ただひとつ残っているのはその首の骨である。不思議といおうか、偶然といおうか、さきに木の上に投げ落されたときに、その片目を大きい枝の折れて尖っているところに貫かれたので、そればかりは骨となっても元のところにかかっているのであった。
自分の家の前であるから、その死骸
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