を黙許されたもので、それは非常の恩典であると伝えられたそうである。それとても江戸から九州までの道筋に限られていることで、全然方角ちがいの水戸や仙台へは足を向けられないわけであった。果してそのかたきは知れずに終った。

     ◇

 錦花氏のいわれた通り、亀山の仇討は元禄曾我と唄われながらもその割に栄《は》えないのは、石井兄弟のために少しく気の毒でもある。しかもそういう意味の幸不幸は他にいくらもある。現に浄瑠璃坂の仇討のごときは、それが江戸の出来事でもあり、多人数が党を組んでの討入りでもあり、現に大石内蔵助の吉良家討入りは浄瑠璃坂の討入りを参考にしたのであると伝えられている位であるが、どうもそれがぱっ[#「ぱっ」に傍点]としない。事件が京阪に関係がないので、浄瑠璃坂も浄瑠璃に唄われず、人形にも仕組まれず、闇から闇へ葬られた形になってしまった。よし原の秋篠なども芝居になりそうでならない。もっとも「女郎花由縁助刀《おみなえしゆかりのすけだち》」という丸本《まるほん》にはなっているが、芝居や講談の方には採用されず、したがってあまりに知られていないらしい。
 なんといっても、かたき討は大石内
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