髪を畳に摺付けて潜然《さめざめ》と泣く。その姿の悲惨《いじら》しいような、怖しいような、何とも云えない心持がして、思わずハッと眼を閉じると、燈火《あかり》は消える、女の姿も消える。この途端に抱寝していた小児《こども》が俄に魘《おび》えて、アレ住《すみ》が来た、怖いよゥと火の付くように泣立てる。ようよう欺し賺《すか》してその晩は兎《と》もかく寝付きましたが、その翌《あく》る晩も右の散し髪の湿しおれた女が枕辺に這い寄って、御免下さい御免下さいと悲しそうに訴える、その都度に小児までが夢に魘《おそ》われて、アレ住が来た、ソレ住が来た、怖い怖いと泣いて騒ぐ、妾は心の迷いという事もありましょうが、何にも知らぬ三歳《みつ》や四歳《よつ》の小児が、何を怖がって何を泣くか一向解りませぬ、その上|何《ど》うして住という名を識って居りますか、それも解りませぬ。それが一晩や二晩でなく三晩も四晩も、昨夜《ゆうべ》でモウ十日も続くのでございますから、とても我慢も辛抱もできません。その蒼ざめた顔その悲しそうな声、今も眼に着いて耳について、思い出しても悚然《ぞっ》とします――と声|顫《ふる》わせて物語る。
 兄は武士、斯《か》くと聞くより冷笑《あざわら》って、お前も武士の女房でないか、幽霊の変化のと云う物が斯世《このよ》にあろうと思うか、馬鹿も好《いい》加減にしろと頭ごなしに叱り付けたが妹は中々承知せず、何《ど》うあっても彼《あ》の邸には居られませぬと思い入ったる気色《けしき》に、兄も殆ど持余《もてあま》して、これには何か仔細があろう、妹の片言ばかりでは証にならぬから、兎もかくも一応先方へ問合せた上、また分別もあろうと思案して、取あえず飯田町の邸へ出向いて主人《あるじ》の隼人に面会し、さて甚だ馬鹿馬鹿しい事で、実にお噺にもならぬ次第ではあるが、妹が斯《か》く斯く申して是非とも離縁を申し込んで呉れと云う、ついては右に付き、何か御心当りの事でもござろうかと尋ねると、隼人も最初《はじめ》は笑い、後には眉を顰めて、それは近ごろ不思議な事を承わる、御存知の通り、拙者は当|邸《やしき》に生れて已に二十余年に相成るが、左様な事は見もせず聞も及ばぬ、しかし拙者の妻に限って毎夜左様な不思議を見るというも何分|解《げ》し難き次第、兎も角も念の為に一応詮議致して見ましょうと云うので、年古く召仕っている下女下男などを呼出
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