狐は少し悄気《しょげ》ながら答へました。
「えゝ、そして僕はあなたの為《ため》ならばほかのどんなことでもやりますよ。この詩集、ごらんなさいませんか。ハイネといふ人のですよ。翻訳ですけれども仲々よくできてるんです。」
「まあ、お借りしていゝんでせうかしら。」
「構ひませんとも。どうかゆっくりごらんなすって。ぢゃ僕もう失礼します。はてな、何か云ひ残したことがあるやうだ。」
「お星さまのいろのことですわ。」
「あゝさうさう、だけどそれは今度にしませう。僕あんまり永くお邪魔しちゃいけないから。」
「あら、いゝんですよ。」
「僕又来ますから、ぢゃさよなら。本はあげてきます。ぢゃ、さよなら。」狐はいそがしく帰って行きました。そして樺《かば》の木はその時吹いて来た南風にざわざわ葉を鳴らしながら狐《きつね》の置いて行った詩集をとりあげて天の川やそらいちめんの星から来る微《かす》かなあかりにすかして頁《ページ》を繰りました。そのハイネの詩集にはロウレライやさまざま美しい歌がいっぱいにあったのです。そして樺の木は一晩中よみ続けました。たゞその野原の三時すぎ東から金牛宮《きんぎうきゅう》ののぼるころ少しとろとろしただけでした。
夜があけました。太陽がのぼりました。
草には露がきらめき花はみな力いっぱい咲きました。
その東北の方から熔《と》けた銅の汁をからだ中に被《かぶ》ったやうに朝日をいっぱいに浴びて土神がゆっくりゆっくりやって来ました。いかにも分別くささうに腕を拱《こまね》きながらゆっくりゆっくりやって来たのでした。
樺の木は何だか少し困ったやうに思ひながらそれでも青い葉をきらきらと動かして土神の来る方を向きました。その影は草に落ちてちらちらちらちらゆれました。土神はしづかにやって来て樺の木の前に立ちました。
「樺の木さん。お早う。」
「お早うございます。」
「わしはね、どうも考へて見るとわからんことが沢山ある、なかなかわからんことが多いもんだね。」
「まあ、どんなことでございますの。」
「たとへばだね、草といふものは黒い土から出るのだがなぜかう青いもんだらう。黄や白の花さへ咲くんだ。どうもわからんねえ。」
「それは草の種子が青や白をもってゐるためではないでございませうか。」
「さうだ。まあさう云へばさうだがそれでもやっぱりわからんな。たとへば秋のきのこのやうなものは種子もなし全く土の中からばかり出て行くもんだ、それにもやっぱり赤や黄いろやいろいろある、わからんねえ。」
「狐さんにでも聞いて見ましたらいかゞでございませう。」
樺の木はうっとり昨夜《ゆふべ》の星のはなしをおもってゐましたのでつい斯《か》う云ってしまひました。
この語《ことば》を聞いて土神は俄《には》かに顔いろを変へました。そしてこぶしを握りました。
「何だ。狐? 狐が何を云ひ居《を》った。」
樺の木はおろおろ声になりました。
「何も仰《お》っしゃったんではございませんがちょっとしたらご存知かと思ひましたので。」
「狐なんぞに神が物を教はるとは一体何たることだ。えい。」
樺の木はもうすっかり恐《こは》くなってぷりぷりぷりぷりゆれました。土神は歯をきしきし噛《か》みながら高く腕を組んでそこらをあるきまはりました。その影はまっ黒に草に落ち草も恐れて顫《ふる》へたのです。
「狐《きつね》の如《ごと》きは実に世の害悪だ。たゞ一言もまことはなく卑怯《ひけふ》で臆病《おくびゃう》でそれに非常に妬《ねた》み深いのだ。うぬ、畜生の分際として。」
樺《かば》の木はやっと気をとり直して云ひました。
「もうあなたの方のお祭も近づきましたね。」
土神は少し顔色を和げました。
「さうぢゃ。今日は五月三日、あと六日だ。」
土神はしばらく考へてゐましたが俄《には》かに又声を暴《あら》らげました。
「しかしながら人間どもは不届だ。近頃《ちかごろ》はわしの祭にも供物一つ持って来ん、おのれ、今度わしの領分に最初に足を入れたものはきっと泥の底に引き擦り込んでやらう。」土神はまたきりきり歯噛《はが》みしました。
樺の木は折角なだめようと思って云ったことが又もや却《かへ》ってこんなことになったのでもうどうしたらいゝかわからなくなりたゞちらちらとその葉を風にゆすってゐました。土神は日光を受けてまるで燃えるやうになりながら高く腕を組みキリキリ歯噛みをしてその辺をうろうろしてゐましたが考へれば考へるほど何もかもしゃくにさはって来るらしいのでした。そしてたうとうこらへ切れなくなって、吠《ほ》えるやうにうなって荒々しく自分の谷地《やち》に帰って行ったのでした。
(三)[#「(三)」は縦中横]
土神の棲《す》んでゐる所は小さな競馬場ぐらゐある、冷たい湿地で苔《こけ》やからくさやみじかい蘆《あし》
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