しないよ」
 大臣《だいじん》の子は小さな樺《かば》の木の下を通るとき、その大きな青い帽子《ぼうし》を落《お》としました。そして、あわててひろってまた一生けん命《めい》に走りました。
 みんなの声ももう聞こえませんでした。そして野原はだんだんのぼりになってきました。
 二人はやっと馳《か》けるのをやめて、いきをせかせかしながら、草をばたりばたりと踏《ふ》んで行きました。
 いつか霧《きり》がすうっとうすくなって、お日さまの光が黄金色《きんいろ》に透《すきとお》ってきました。やがて風が霧《きり》をふっと払《はら》いましたので、露《つゆ》はきらきら光り、きつねのしっぽのような茶色の草穂《くさぼ》は一面《いちめん》波《なみ》を立てました。
 ふと気がつきますと遠くの白樺《しらかば》の木のこちらから、目もさめるような虹《にじ》が空高く光ってたっていました。白樺《しらかば》のみきは燃《も》えるばかりにまっかです。
「そら虹《にじ》だ。早く行ってルビーの皿《さら》を取ろう。早くおいでよ」
 二人はまた走り出しました。けれどもその樺《かば》の木に近づけば近づくほど美しい虹《にじ》はだんだん向《む》こうへ逃《に》げるのでした。そして二人が白樺《しらかば》の木の前まで来たときは、虹《にじ》はもうどこへ行ったか見えませんでした。
「ここから虹《にじ》は立ったんだね。ルビーのお皿《さら》が落《お》ちてないか知らん」
 二人は足でけむりのような茶色の草穂《くさぼ》をかきわけて見ましたが、ルビーの絵《え》の具皿《ぐざら》はそこに落《お》ちていませんでした。
「ね、虹《にじ》は向《む》こうへ逃《に》げるときルビーの皿《さら》もひきずって行ったんだね」
「そうだろうと思います」
「虹《にじ》はいったいどこへ行ったろうね」
「さあ」
「あ、あすこにいる。あすこにいる。あんな遠くにいるんだよ」
 大臣《だいじん》の子はそっちを見ました。まっ黒な森の向《む》こう側《がわ》から、虹《にじ》は空高く大きく夢《ゆめ》の橋《はし》をかけていたのでした。
「森の向《む》こうなんだね。行ってみよう」
「また逃《に》げるでしょう」
「行ってみようよ。ね。行こう」
 二人《ふたり》はまた歩き出しました。そしてもう柏《かしわ》の森まで来ました。
 森の中はまっくらで気味《きみ》が悪いようでした。それでも王子は、ずんずんはいって行きました。小藪《こやぶ》のそばを通るとき、さるとりいばらが緑色《みどりいろ》のたくさんのかぎを出して、王子の着物《きもの》をつかんで引き留《と》めようとしました。はなそうとしてもなかなかはなれませんでした。
 王子はめんどうくさくなったので剣《つるぎ》をぬいていきなり小藪《こやぶ》をばらんと切ってしまいました。
 そして二人はどこまでもどこまでも、むくむくの苔《こけ》やひかげのかずらをふんで森の奥《おく》の方へはいって行きました。
 森の木は重《かさ》なり合ってうす暗《ぐら》いのでしたが、そのほかにどうも空まで暗《くら》くなるらしいのでした。
 それは、森の中に青くさし込《こ》んでいた一本の日光の棒《ぼう》が、ふっと消《き》えてそこらがぼんやりかすんできたのでもわかりました。
 また霧《きり》が出たのです。林の中はまもなくぼんやり白くなってしまいました。もう来た方がどっちかもわからなくなってしまったのです。
 王子はためいきをつきました。
 大臣《だいじん》の子もしきりにあたりを見ましたが、霧《きり》がそこらいっぱいに流《なが》れ、すぐ眼《め》の前の木だけがぼんやりかすんで見えるだけです。二人は困《こま》ってしまって腕《うで》を組んで立ちました。
 すると小さなきれいな声で、誰《だれ》か歌いだしたものがあります。

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「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。
 はやしのなかにふる霧《きり》は、
 蟻《あり》のお手玉、三角帽子《さんかくぼうし》の、一寸法師《いっすんぼうし》のちいさなけまり」
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 霧《きり》がトントンはね踊《おど》りました。

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「ポッシャリ、ポッシャリ、ツイツイ、トン。
 はやしのなかにふる霧《きり》は、
 くぬぎのくろい実《み》、柏《かしわ》の、かたい実《み》のつめたいおちち」
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 霧《きり》がポシャポシャ降《ふ》ってきました。そしてしばらくしんとしました。
「誰《だれ》だろう。ね。誰《だれ》だろう。あんなことうたってるのは。二、三人のようだよ」
 二人《ふたり》はまわりをきょろきょろ見ましたが、どこにも誰《だれ》もいませんでした。
 声はだんだん高くなりました。それはじょうずな芝笛《しばぶえ》のように聞こえるのでした。

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