食《たんじき》す。或《あるい》は沼田《しょうでん》に至り、螺蛤《らこう》を啄《ついば》む。螺蛤|軟泥《なんでい》中にあり、心|柔※[#「車+(而/大)」、第3水準1−92−46]《にゅうなん》にして、唯温水を憶《おも》う。時に俄《にわか》に身空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱《もんらん》声を絶す。汝等これを※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食《たんじき》するに、又|懺悔《ざんげ》の念あることなし。
 斯《かく》の如《ごと》きの諸の悪業、挙げて数うるなし。悪業を以ての故《ゆえ》に、更《さら》に又諸の悪業を作る。継起《けいき》して遂《つい》に竟《おわ》ることなし。昼は則ち日光を懼《おそ》れ、又人|及《および》諸の強鳥を恐《おそ》る。心|暫《しば》らくも安らかなることなし、一度《ひとたび》梟身《きょうしん》を尽《つく》して、又|新《あらた》に梟身を得。審《つまびらか》に諸の苦患《くげん》を被《こうむ》りて又尽くることなし。で前の座では、捨身菩薩《しゃしんぼさつ》を疾翔大力《しっしょうたいりき》と呼びあげるわけあい又、その願成《がんじょう》の因縁《いんねん》をお話いたしたじゃが、次に爾迦夷《るかい》に告げて曰《いわ》くとある。爾迦夷というはこのとき我等と同様|梟《ふくろう》じゃ。われらのご先祖と、一緒にお棲《すま》いなされたお方じゃ。今でも爾迦夷|上人《しょうにん》と申しあげて、毎日十三日が[#「毎日十三日が」はママ]ご命日じゃ。いずれの家でも、梟の限りは、十三日には楢《なら》の木の葉を取《と》て参《まい》て、爾迦夷上人さまにさしあげるということをやるじゃ、これは爾迦夷さまが楢の木にお棲いなされたからじゃ。この爾迦夷さまは、早くから梟の身のあさましいことをご覚悟《かくご》遊ばされ、出離の道を求められたじゃげなが、とうとうその一心の甲斐《かい》あって、疾翔大力さまにめぐりあい、ついにその尊い教《おしえ》を聴聞《ちょうもん》あって、天上へ行かしゃれた。その爾迦夷さまへのご説法じゃ。諦に聴け、諦に聴け。善くこれを思念せよと。心をしずめてよく聴けよ、心をしずめてよく聴けよと斯《こ》うじゃ。いずれの説法の座でも、よくよく心をしずめ耳をすまして聴くことは大切なのじゃ。上《うわ》の空で聞いていたでは何にもならぬじゃ。」
 ところがこのとき、さっきの喧嘩をした二疋の子供のふくろう
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