二十六夜
宮沢賢治

−−−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)北上《きたかみ》川

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)我今|汝《なんぢ》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]
−−−−

      ※

 旧暦の六月二十四日の晩でした。
 北上《きたかみ》川の水は黒の寒天よりももっとなめらかにすべり獅子鼻《ししはな》は微《かす》かな星のあかりの底にまっくろに突き出てゐました。
 獅子鼻の上の松林は、もちろんもちろん、まっ黒でしたがそれでも林の中に入って行きますと、その脚の長い松の木の高い梢《こずゑ》が、一本一本空の天の川や、星座にすかし出されて見えてゐました。
 松かさだか鳥だかわからない黒いものがたくさんその梢にとまってゐるやうでした。
 そして林の底の萱《かや》の葉は夏の夜の雫《しづく》をもうポトポト落して居《を》りました。
 その松林のずうっとずうっと高い処《ところ》で誰《たれ》かゴホゴホ唱へてゐます。
「爾《そ》の時に疾翔大力《しっしょうたいりき》、爾迦夷《るかゐ》に告げて曰《いは》く、諦《あきらか》に聴け、諦に聴け、善《よ》く之《これ》を思念せよ、我今|汝《なんぢ》に、梟鵄《けうし》諸《もろもろ》の悪禽《あくきん》、離苦《りく》解脱《げだつ》の道を述べん、と。
 爾迦夷《るかゐ》、則《すなは》ち、両翼を開張し、虔《うやうや》しく頸《くび》を垂れて、座を離れ、低く飛揚して、疾翔大力を讃嘆すること三匝《さんさふ》にして、徐《おもむろ》に座に復し、拝跪《はいき》して唯《ただ》願ふらく、疾翔大力、疾翔大力、たゞ我等が為《ため》に、これを説きたまへ。たゞ我等が為《ため》に、之を説き給へと。
 疾翔大力、微笑して、金色《こんじき》の円光を以《もっ》て頭《かうべ》に被《かぶ》れるに、その光、遍《あまね》く一座を照し、諸鳥歓喜充満せり。則ち説いて曰《いは》く、
 汝等《なんぢら》審《つまびらか》に諸の悪業《あくごふ》を作る。或《あるい》は夜陰を以て、小禽《せうきん》の家に至る。時に小禽、既《すで》に終日日光に浴し、歌唄《かばい》跳躍して疲労をなし、唯唯甘美の睡眠中にあり。汝等飛躍して之を握《つか》む。利爪《りさう》深くその身に入り、諸《もろもろ》の小禽《せうきん》、痛苦又声を発するなし。則ち之を裂きて擅《ほしいまま》に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食《たんじき》す。或は沼田《せうでん》に至り、螺蛤《らかふ》を啄《ついば》む。螺蛤軟泥中にあり、心|柔※[#「車+(而/大)」、第3水準1−92−46]《にうなん》にして、唯温水を憶《おも》ふ。時に俄《にはか》に身、空中にあり、或は直ちに身を破る、悶乱《もんらん》声を絶す。汝等之を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食《たんじき》するに、又|懺悔《ざんげ》の念あることなし。
 斯《かく》の如《ごと》きの諸《もろもろ》の悪業《あくごふ》、挙げて数ふるなし。悪業を以ての故に、更に又諸の悪業を作る。継起して遂《つひ》に竟《をは》ることなし。昼は則ち日光を懼《おそ》れ又人|及《および》諸の強鳥を恐る。心|暫《しばら》くも安らかなるなし、一度《ひとたび》梟身《けうしん》を尽して、又|新《あらた》に梟身を得《う》、審《つまびらか》に諸の苦患《くげん》を被《かうむ》りて、又|尽《つく》ることなし。」
 俄《には》かに声が絶え、林の中はしぃんとなりました。たゞかすかなかすかなすゝり泣きの声が、あちこちに聞えるばかり、たしかにそれは梟《ふくろふ》のお経だったのです。
 しばらくたって、西の遠くの方を、汽車のごうと走る音がしました。その音は、今度は東の方の丘に響いて、ごとんごとんとこだまをかへして来ました。
 林はまたしづまりかへりました。よくよく梢をすかして見ましたら、やっぱりそれは梟でした。一|疋《ぴき》の大きなのは、林の中の一番高い松の木の、一番高い枝にとまり、そのまはりの木のあちこちの枝には、大きなのや小さいのや、もうたくさんのふくろふが、じっととまってだまってゐました。ほんのときどき、かすかなかすかなため息の音や、すゝり泣きの声がするばかりです。
 ゴホゴホ声が又起りました。
「たゞ今のご文《もん》は、梟鵄《けうし》守護章というて、誰《たれ》も存知の有り難いお経の中の一とこぢゃ。たゞ今から、暫時《しばし》の間、そのご文の講釈を致す。みなの衆、ようく心を留めて聞かしゃれ。折角鳥に生れて来ても、たゞ腹が空《す》いた、取って食ふ、睡《ねむ》くなった、巣に入るではなんの所詮《しょせん》もないことぢゃぞよ。それも鳥に生れてたゞやすやすと生きるというても、まことはたゞの一日とても、たゞごとではないのぞよ、こちらが一日生きるには、雀《すずめ》やつぐみや、たにしやみゝずが、十や二十も殺されねばならぬ、たゞ今のご文にあらしゃるとほりぢゃ。こゝの道理をよく聴きわけて、必らずうかうか短い一生をあだにすごすではないぞよ。これからご文に入るぢゃ。子供らも、こらへて睡るではないぞ。よしか。」
 林の中は又しいんとなりました。さっきの汽車が、まだ遠くの遠くの方で鳴ってゐます。
「爾《そ》の時に疾翔大力《しっしょうたいりき》、爾迦夷《るかゐ》に告げて曰《いは》くと、まづ疾翔大力とは、いかなるお方ぢゃか、それを話さなければならんぢゃ。
 疾翔大力と申しあげるは、施身大菩薩《せしんだいぼさつ》のことぢゃ。もと鳥の中から菩提心《ぼだいしん》を発して、発願《ほつぐわん》した大力の菩薩ぢゃ。疾翔とは早く飛ぶといふことぢゃ。捨身菩薩がもとの鳥の形に身をなして、空をお飛びになるときは、一揚というて、一はゞたきに、六千|由旬《ゆじゅん》を行きなさる。そのいはれより疾翔と申さるゝ、大力といふは、お徳によって、たとへ火の中水の中、たゞこの菩薩を念ずるものは、捨身大菩薩、必らず飛び込んで、お救ひになり、その浄明《じゃうみゃう》の天上にお連れなさる、その時火に入って身の毛一つも傷《きずつ》かず、水に潜《くぐ》って、羽、塵《ちり》ほどもぬれぬといふ、そのお徳をば、大力とかう申しあげるのぢゃ。されば疾翔大力とは、捨身大菩薩を、鳥より申しあげる別号ぢゃ、まあさう申しては失礼なれど、鳥より仰ぎ奉る一つのあだ名ぢゃと、斯《か》う考へてよろしからう。」
 声がしばらくとぎれました。林はしいんとなりました。たゞ下の北上川の淵《ふち》で、鱒《ます》か何かのはねる音が、バチャンと聞えただけでした。
 梟《ふくろふ》の、きっと大僧正か僧正でせう、坊さんの講義が又はじまりました。
「さらば疾翔大力は、いかなればとて、われわれ同様|賤《いや》しい鳥の身分より、その様なる結構のお身となられたか。結構のことぢゃ。ご自分も又ほかの一切のものも、本願のごとくにお救ひなされることなのぢゃ。さほど尊いご身分にいかなことでなられたかとなれば、なかなか容易のことではあらぬぞよ。疾翔大力さまはもとは一疋の雀《すずめ》でござらしゃったのぢゃ。南天竺《なんてんぢく》の、ある家《や》の棟《むね》に棲《す》まはれた。ある年非常な饑饉《ききん》が来て、米もとれねば木の実もならず、草さへ枯れたことがござった。鳥もけものも、みな飢ゑ死にぢゃ人もばたばた倒れたぢゃ。もう炎天と飢渇《きかつ》の為《ため》に人にも鳥にも、親兄弟の見さかひなく、この世からなる餓鬼道《がきだう》ぢゃ。その時疾翔大力は、まだ力ない雀でござらしゃったなれど、つくづくこれをご覧じて、世の浅間《あさま》しさはかなさに、泪《なみだ》をながしていらしゃれた。中にもその家の親子二人、子はまだ六つになるならず、母親とてもその大飢渇《だいきかつ》に、どこから食《じき》を得るでなし、もうあすあすに二人もろとも見す見す餓死を待ったのぢゃ。この時、疾翔大力《しっしょうたいりき》は、上よりこれをながめられあまりのことにしばしは途方にくれなされたが、日ごろの恩を報ずるは、たゞこの時と勇みたち、つかれた羽をうちのばし、はるか遠くの林まで、親子の食《じき》をたづねたげな。一念天に届いたか、ある大林のその中に、名さへも知らぬ木なれども、色もにほひもいと高き、十の木の実をお見附けなされたぢゃ。さればもはや疾翔大力は、われを忘れて、十たびその実をおのがあるじの棟《むね》に運び、親子の上より落されたぢゃ。その十たび目は、あまりの飢ゑと身にあまる、その実の重さにまなこもくらみ、五たび土に落ちたれど、たゞ報恩の一念に、ついご自分にはその実を啄《ついば》みなさらなんだ、おもひとゞいてその十番目の実を、無事に親子に届けたとき、あまりの疲れと張りつめた心のゆるみに、ついそのまゝにお倒れなされたぢゃ。されどもややあって正気に復し下の模様を見てあれば、いかにもその子は勢《せい》も増し、たゞいたけなく悦《よろこ》んでゐる如《ごと》くなれども、親はかの実も自らは口にせなんぢゃ、いよいよ餓ゑて倒れるやうす、疾翔大力これを見て、はやこの上はこの身を以て親の餌食《ゑじき》とならんものと、いきなり堅く身をちゞめ、息を殺してはりより床へと落ちなされたのぢゃ。その痛さより、身は砕くるかと思へども、なほも命はあらしゃった。されども慈悲もある人の、生きたと見てはとても食《たう》べはせまいとて、息を殺し眼《め》をつぶってゐられたぢゃ。そしてたうとう願かなってその親子をば養はれたぢゃ。その功徳《くどく》より、疾翔大力様は、つひに仏にあはれたぢゃ。そして次第に法力《ほふりき》を得て、やがてはさきにも申した如く、火の中に入れどもその毛一つも傷つかず、水に入れどもその羽一つぬれぬといふ、大力の菩薩《ぼさつ》となられたぢゃ。今このご文は、この大菩薩が、悪業《あくごふ》のわれらをあはれみて、救護の道をば説かしゃれた。その始めの方ぢゃ。しばらく休んで次の講座で述べるといたす。
 南無《なむ》疾翔大力、南無疾翔大力。
 みなの衆しばらくゆるりとやすみなされ。」
 いちばん高い木の黒い影が、ばたばた鳴って向ふの低い木の方へ移ったやうでした。やっぱりふくろふだったのです。
 それと同時に、林の中は俄《には》かにばさばさ羽の音がしたり、嘴《くちばし》のカチカチ鳴る音、低くごろごろつぶやく音などで、一杯になりました。天の川が大分まはり大熊星《おほぐまぼし》がチカチカまたゝき、それから東の山脈の上の空はぼおっと古めかしい黄金《きん》いろに明るくなりました。
 前の汽車と停車場で交換したのでせうか、こんどは南の方へごとごと走る音がしました。何だか車のひゞきが大へん遅く貨物列車らしかったのです。
 そのとき、黒い東の山脈の上に何かちらっと黄いろな尖《とが》った変なかたちのものがあらはれました。梟《ふくろふ》どもは俄にざわっとしました。二十四日の黄金《きん》の角《つの》、鎌《かま》の形の月だったのです。忽《たちま》ちすうっと昇ってしまひました。沼の底の光のやうな朧《おぼろ》な青いあかりがぼおっと林の高い梢《こずゑ》にそゝぎ一|疋《ぴき》の大きな梟《ふくろふ》が翅《はね》をひるがへしてゐるのもひらひら銀いろに見えました。さっきの説教の松の木のまはりになった六本にはどれにも四|疋《ひき》から八疋ぐらゐまで梟がとまってゐました。低く出た三本のならんだ枝に三疋の子供の梟がとまってゐました。きっと兄弟だったでせうがどれも銀いろで大さ[#「大さ」はママ]はみな同じでした。その中でこちらの二疋は大分|厭《あ》きてゐるやうでした。片っ方の翅をひらいたり、片脚でぶるぶる立ったり、枝へ爪《つめ》を引っかけてくるっと逆さになって小笠原島のかうもりのまねをしたりしてゐました。
 それから何か云《い》ってゐました。
「そら、大の字やって見せようか。大の字なんか何でもないよ。」
「大の字なんか、僕《ぼく》だってできらあ。」
「できるかい。できるな
次へ
全5ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング