来た方へ遁《に》げて戻る。
その眼はじっと雷竜を見
その手はそっと空気を押《お》す。
そして雷竜の太い尾が
まず見えなくなりその次に
山のような胴《どう》がかくれ
おしまい黒い舌を出して
びちょびちょ水を呑んでいる
蛇《へび》に似たその頭がかくれると
大学士はまず助かったと
いきなり来た方へ向いた。
その足跡さへずんずんたどって
遁げてさえ行くならもう直きに
汀に涛《なみ》も打って来るし
空も赤くはなくなるし
足あとももう泥に食い込まない
堅い頁岩《けつがん》の上を行く。
崖《がけ》にはゆうべの洞《ほら》もある
そこまで行けばもう大丈夫《だいじょうぶ》
こんなあぶない探険などは
今度かぎりでやめてしまい
博物館へも断わらせて
東京のまちのまん中で
赤い鼻の連中などを
相手に法螺《ほら》を吹いてればいい。
大体こんな計算だった。
それもまるきり電《いなずま》のような計算だ。
ところが楢ノ木大学士は
も一度ぎくっと立ちどまった。
その膝《ひざ》はもうがたがたと鳴り出した。
見たまえ、学士の来た方の
泥の岸はまるでいちめん
うじゃうじゃの雷竜どもなのだ。
まっ黒なほど居《お》ったのだ。
長い頸を天に延ばすやつ
頸をゆっくり上下に振《ふ》るやつ
急いで水にかけ込むやつ
実にまるでうじゃうじゃだった。
「もういけない。すっかりうまくやられちゃった。いよいよおれも食われるだけだ。大学士の号も一所になくなる。雷竜はあんまりひどい。前にも居るしうしろにも居る。まあただ一つたよりになるのはこの岬の上だけだ。そこに登っておれは助かるか助からないか、事によったら新生代の沖積世《ちゅうせきせい》が急いで助けに来るかも知れない。さあ、もうたったこの岬だけだぞ。」
学士はそっと岬にのぼる。
まるで蕈《きのこ》とあすなろとの
合の子みたいな変な木が
崖にもじゃもじゃ生えていた。
そして本当に幸なことは
そこには雷竜がいなかった。
けれども折角《せっかく》登っても
そこらの景色は
あんまりいいというでもない、
岬の右も左の方も
泥の渚《なぎさ》は、もう一めんの雷竜だらけ
実にもじゃもじゃしていたのだ。
水の中でも黒い白鳥のように
頭をもたげて泳いだり
頸《くび》をくるっとまわしたり
その厭《いや》らしいこと恐《こわ》いこと
大学士はもう眼をつぶった。
ところがいつか大学士は
自分の鼻さきがふっふっ鳴って
暖いのに気がついた。
「とうとう来たぞ、喰《く》われるぞ。」
大学士は観念をして眼をあいた。
大さ二尺の四っ角な
まっ黒な雷竜の顔が
すぐ眼の前までにゅうと突き出され
その眼は赤く熟したよう。
その頸は途方《とほう》もない向うの
鼠いろのがさがさした胴まで
まるで管のように続いていた。
大学士はカーンと鳴った。
もう喰われたのだ、いやさめたのだ。
眼がさめたのだ、洞穴《ほらあな》は
まだまっ暗で恐《おそ》らくは
十二時にもならないらしかった。
そこで楢ノ木大学士は
一つ小さなせきばらいをし
まだ雷竜がいるようなので
つくづく闇《やみ》をすかして見る。
外ではたしかに涛《なみ》の音
「なあんだ。馬鹿にしてやがる。もう睡《ねむ》れんぞ。寒いなあ。」
又たばこを出す。火をつける。

楢ノ木大学士は宝石学の専門だ。
その大学士の小さな家
「貝の火|兄弟《けいてい》商会」の
赤鼻の支配人がやって来た。
「先生お手紙でしたから早速とんで来ました。大へんお早くお帰りでした。ごく上等のやつをお見あたりでございましたか、何せ相手がグリーンランドの途方もない成金ですからありふれたものじゃなかなか承知しないんです。」
大学士は葉巻を横にくわえ
雲母紙《うんもし》を張った天井《てんじょう》を
斜《なな》めに見ながらこう云《い》った。
「うん探して来たよ、僕《ぼく》は一ぺん山へ出かけるともうどんなもんでも見附《みつ》からんと云うことは断じてない、けだしすべての宝石はみな僕をしたってあつまって来るんだね。いやそれだから、此度《こんど》なんかもまったくひどく困ったよ。殊《こと》に君注文が割合に柔《やわ》らかな蛋白石《たんぱくせき》だろう。僕がその山へ入ったら蛋白石どもがみんなざらざら飛びついて来てもうどうしてもはなれないじゃないか。それが君みんな貴蛋白石《プレシアスオーパル》の火の燃えるようなやつなんだ。望みのとおりみんな背嚢《はいのう》の中に納めてやりたいことはもちろんだったが、それでは僕も身動きもできなくなるのだから気の毒だったがその中からごくいいやつだけ撰《えら》んださ。」
「ははあ、そいつはどうも、大へん結構でございました。しかし、そのお持ち帰りになりました分はいずれでございますか。一寸《ちょっと》拝見をねがいとう存じます。」
「ああ、見せるよ。ただ僕はあんな立派なやつだから
前へ 次へ
全11ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング