って、もしもし今晩は、私は旅の者ですが、日が暮れてひどく困ってゐます。今夜一晩泊めて下さい。たべ物は持ってゐますから支度はなんにも要りませんなんて、へっ、こんなこと云ふのは、もう考へてもいやになる。そこで今夜はこゝへ泊らう。」
大学士は大きな近眼鏡を
ちょっと直してにやにや笑ひ
小屋へ入って行ったのだ。
土間には四つの石かけが
炉の役目をしその横には
榾《ほだ》もいくらか積んである。
大学士はマッチをすって
火をたき、それからビスケットを出し
もそもそ喰べたり手帳に何か書きつけたり
しばらくの間してゐたが
おしまひに火をどんどん燃して
ごろりと藁《わら》にねころんだ。
夜中になって大学士は
「うう寒い」
と云ひながら
ばたりとはね起きて見たら
もうたきゞが燃え尽きて
たゞのおきだけになってゐた。
学士はいそいでたきゞを入れる。
火は赤く愉快に燃え出し
大学士は胸をひろげて
つくづくとよく暖る。
それから一寸《ちょっと》外へ出た。
二十日の月は東にかゝり
空気は水より冷たかった、
学士はしばらく足踏みをし
それからたばこを一本くはへマッチをすって
「ふん、実にしづかだ、夜あけまでまだ三時間半あるな。」
つぶやきながら小屋に入った。
ぼんやりたき火をながめながら
わらの上に横になり
手を頭の上で組み
うとうとうとうとした。
突然頭の下のあたりで
小さな声で云ひ合ってるのが聞えた。
「そんなに肱《ひぢ》を張らないでお呉れ。おれの横の腹に病気が起るぢゃないか。」
「おや、変なことを云ふね、一体いつ僕が肱を張ったね」
「そんなに張ってゐるぢゃないか、ほんたうにお前この頃湿気を吸ったせいかひどくのさばり出して来たね」
「おやそれは私のことだらうか。お前のことぢゃなからうかね、お前もこの頃は頭でみりみり私を押しつけようとするよ。」
大学士は眼を大きく開き
起き上ってその辺を見まはしたが
誰《た》れも居《を》らない様だった。
声はだんだん高くなる。
「何がひどいんだよ。お前こそこの頃はすこしばかり風を呑《の》んだせいか、まるで人が変ったやうに意地悪になったね。」
「はてね、少しぐらゐ僕が手足をのばしたってそれをとやかうお前が云ふのかい。十万二千年昔のことを考へてごらん。」
「十万何千年前とかがどうしたの。もっと前のことさ、十万百万千万年、千五百の万年の前のあの時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね。忘れなかったら今になって、僕の横腹を肱で押すなんて出来た義理かい。」
大学士はこの語《ことば》を聞いて
すっかり愕《おど》ろいてしまふ。
「どうも実に記憶のいゝやつらだ。えゝ、千五百の万年の前のその時をお前は忘れてしまってゐるのかい。まさか忘れはしないだらうがね、えゝ。これはどうも実に恐れ入ったね、いったい誰だ。変に頭のいゝやつは。」
大学士は又そろそろと起きあがり
あたりをさがすが何もない。
声はいよいよ高くなる。
「それはたしかに、あなたは僕の先輩さ。けれどもそれがどうしたの。」
「どうしたのぢゃないぢゃないか。僕がやっと体骼《たいかく》と人格を完成してほっと息をついてるとお前がすぐ僕の足もとでどんな声をしたと思ふね。こんな工合《ぐあひ》さ。もし、ホンブレンさま、こゝの所で私もちっとばかり延びたいと思ひまする。どうかあなたさまのおみあしさきにでも一寸《ちょっと》取りつかせて下さいませ。まあかう云ふお前のことばだったよ。」
楢《なら》ノ木学士は手を叩《たた》く。
「ははあ、わかった。ホンブレンさまと、一人はホル[#「ル」は小書き]ンブレンドだ。すると相手は誰《たれ》だらう。わからんなあ。けれども、ふふん、こいつは面白い。いよいよ今日も問答がはじまった。しめ、しめ、これだから野宿はやめられん。」
大学士は煙草《たばこ》を新らしく
一本出してマッチをする
声はいよいよ高くなる。
もっともいくら高くても
せいぜい蚊の軍歌ぐらゐだ。
「それはたしかにその通りさ、けれどもそれに対してお前は何と答へたね。いゝえ、そいつは困ります、どうかほかのお方とご相談下さいと斯《こ》んなに立派にはねつけたらう。」
「おや、とにかくさ。それでもお前はかまはず僕の足さきにとりついたんだよ。まあ、そんなこと出来たもんだらうかね。もっとも誰かさんは出来たやうさ。」
「あてこするない。とりついたんぢゃないよ。お前の足が僕の体骼の頭のとこにあったんだよ。僕はお前よりももっと前に生れたジッコさんを頼んだんだよ。今だって僕はジッコさんは大事に大事にしてあげてるんだ。」
大学士はよろこんで笑ひ出す。
「はっはっは、ジッコさんといふのは磁鉄鉱だね、もうわかったさ、喧嘩《けんくゎ》の相手はバイオタイトだ。して見るとなんでもこの辺にさっきの花崗岩《くゎかうがん》のかけら
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