もならん。家の中のあかりを消せい。」その声はガランとした通りに何べんも反響してそれから闇《やみ》に消えました。
この人はよほどみんなに敬はれてゐるやうでした。どの人もどの人もみんな叮寧におじぎをしました。おぢいさんはいよいよ声をふりしぼって叫んで行くのでした。
「家の中のあかりを消せい。電燈を消してもほかのあかりをつけちゃなんにもならん。家の中のあかりを消せい。いや、今晩は。」叫びながら右左の人に挨拶《あいさつ》を返して行くのでした。
「あの人は何ですか。」私は一人の町の人にたづねました。
「撃剣の先生です。」その人は答へました。
「あの床屋のアセチレンも消されるぞ。今度は親方も、とても敵《かな》ふまい。」私はひとりで哂《わら》ひました。それからみちを三四遍きいて、ホテルに帰りました。室《へや》にはほんの小さな蝋燭《らふそく》が一本|点《つ》いて、その下に扇風機が置いてありました。私は扇風機をかけ、気持よく休み、それから給仕が来て「お食事は」とたづねましたので牛乳を持って来て貰《もら》って、それを呑《の》んでゐるうちに、電燈も又点きましたから、あしたの仕度を少しして、その晩は寝《やす》みました。
次の朝、私はホテルの広場で、マリオ日日新聞を読みました。三面なんかまるで毒蛾《どくが》の記事で一杯です。
その中に床屋で起ったやうなことも書いてありました。殊にアムモニアの議論のことまで出てゐましたから、私はもうてっきりあの紳士のことだと考へました。きっと新聞記者もあの九つの椅子《いす》のどれかに腰掛けて、じっとあの問答をきいてゐたのです。また一面にはマリオ高等農学校の、ブンゼンといふ博士の、毒蛾に関する論文が載ってゐました。
それによると、毒蛾の鱗粉《りんぷん》は顕微鏡で見ると、まるで槍《やり》の穂のやうに鋭いといふこと、その毒性は或《ある》いは有機酸のためと云ふが、それ丈《だ》けとも思はれないといふこと、予防法としては鱗粉がついたら、まづ強く擦《こす》って拭《ふ》き取るのが一等だといふやうなことがわかるのでした。
さて私はその日は予定の視察をすまして、夕方すぐに十里ばかり南の方のハームキヤといふ町へ行きました。こゝには有名なコワック大学校があるのです。
ハームキヤの町でも毒蛾の噂《うはさ》は実に大へんなものでした。通りにはやはりたき火の痕《あと》もありましたし、電気会社には、まるで燈台で使ふやうな大きなラムプを、千|燭《しょく》の電燈の代りに高く高く吊《つる》してゐるのも私は見ました。また辻々《つじつじ》には毒蛾の記事に赤インクで圏点をつけたマリオの新聞もはられてゐました。けれども奇体なことは、此《こ》の町に繃帯《はうたい》をしてゐる人も、きれで顔を押へてゐる人も、又実際に顔や手が赤くはれてゐる人も一人も見あたらないことでした。
きっとこの町にはえらい医者が居て治療の法が進んでゐるんだと私は思ひました。
その晩、その町で電燈が消え、たき火が燃されたことはすっかり前の晩と同じでした。けれども電燈の長く消えてゐたこと、たき火の盛んなこととてもマリオよりはひどかったのです。私は早く寝んで、次の日朝早くからコワック大学校の視察に行きました。
大学校は、やっぱり大学校で、教授たちも、巡回視学官の私などが行ったからと云って、あんまり緊張をするでもなし、少し失敬ではありましたが、まあ私はがまんをしました。
それからだんだんまはって行って、その時は丁度十時頃でしたが、一つの標本室へ入って行きましたら、三人の教師たちが、一つの顕微鏡を囲んで、しきりにかはるがはるのぞいたり色素をデックグラスに注《つ》いだりしてゐました。
校長が、みんなを呼ばうとしたのを、私は手で止めて、そっとそのうしろに行って見ました。やっぱり毒蛾《どくが》の話です。多分毒蛾の鱗粉《りんぷん》を見てゐるのだと私は思ひました。
「中軸はあるにはありますね。」
「その中軸に、酸があるのぢゃないですか。」
「中軸が管になって、そこに酸があって、その先端が皮膚にささって、折れたとき酸が注ぎ込まれるといふんですか。それなら全く模型的ですがね。」
「しかしさうでないとも云へないでせう。たゞ中軸が管になってゐることと、その軸に酸が入ってゐることが、証明されないだけです。」
「メチレンブリューの代りに、青いリトマスを使って見たらどうですか。」
「さうですね。」一人が立って、リトマス液を取りに行かうとして、私にぶっつかりました。
「文部局の巡回視学官です。」校長がみんなに云ひました。みんなは私に礼をしました。
「どうです。そのリトマスの反応を拝見したいものですが。」私は笑って申しました。
青いリトマス液が新らしいデックグラスに注がれました。
「顕著です。中軸だけ赤く変ってゐます。」その教授が云ひました。
「どれ拝見。」私もそれをのぞき込みました。
全く槍のやうな形の、するどい鱗粉が、青色リトマスで一帯に青く染まって、その中に中軸だけが暗赤色に見えたのです。
「いや、ありがたう。大へんないゝものを拝見しました。どうです。学校にも大分被害者があったでせう。」私は云ひました。
「いゝえ。なあに、毒蛾なんて、てんでこの町には発生《で》なかったんです。昨夜、こいつ一|疋《ぴき》見つけるのに、四時間もかかったのです。」
一人の教授が答へました。
そして私は大声に笑ったのです。
底本:「新修宮沢賢治全集 第九巻」筑摩書房
1979(昭和54)年7月15日初版第1刷
1983(昭和58)年12月20日初版第6刷
※底本は旧仮名ですが、拗促音は小書きされています。これにならい、ルビの拗促音も、小書きにしました。
入力:林 幸雄
校正:土屋隆
2008年2月27日作成
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