宮沢賢治

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)楢渡《ならわたり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一人|野葡萄《のぶだう》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)噛ぶり[#「噛ぶり」に傍点]
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 楢渡《ならわたり》のとこの崖《がけ》はまっ赤でした。
 それにひどく深くて急でしたからのぞいて見ると全くくるくるするのでした。
 谷底には水もなんにもなくてたゞ青い梢《こずゑ》と白樺《しらかば》などの幹が短く見えるだけでした。
 向ふ側もやっぱりこっち側と同じやうでその毒々しく赤い崖には横に五本の灰いろの太い線が入ってゐました。ぎざぎざになって赤い土から喰《は》み出してゐたのです。それは昔山の方から流れて走って来て又火山灰に埋《うづ》もれた五層の古い熔岩流《ようがんりう》だったのです。
 崖のこっち側と向ふ側と昔は続いてゐたのでせうがいつかの時代に裂けるか罅《わ》れるかしたのでせう。霧のあるときは谷の底はまっ白でなんにも見えませんでした。
 私がはじめてそこへ行ったのはたしか尋常三年生か四年生のころです。ずうっと下の方の野原でたった一人|野葡萄《のぶだう》を喰べてゐましたら馬番の理助が欝金《うこん》の切れを首に巻いて木炭《すみ》の空俵をしょって大股《おほまた》に通りかかったのでした。そして私を見てずゐぶんな高声で言ったのです。
「おいおい、どこからこぼれて此処《ここ》らへ落ちた? さらはれるぞ。蕈《きのこ》のうんと出来る処へ連れてってやらうか。お前なんかには持てない位蕈のある処へ連れてってやらうか。」
 私は「うん。」と云《い》ひました。すると理助は歩きながら又言ひました。
「そんならついて来い。葡萄などもう棄《す》てちまへ。すっかり唇《くちびる》も歯も紫になってる。早くついて来い、来い。後《おく》れたら棄てて行くぞ。」
 私はすぐ手にもった野葡萄の房を棄ていっしんに理助について行きました。ところが理助は連れてってやらうかと云っても一向私などは構はなかったのです。自分だけ勝手にあるいて途方もない声で空に噛ぶり[#「噛ぶり」に傍点]つくやうに歌って行きました。私はもうほんたうに一生けんめいついて行ったのです。
 私どもは柏《かしは》の林の中に入りました。
 影がちらちらちらちらして葉はうつくしく光りました。曲った黒い幹の間を私どもはだんだん潜《くぐ》って行きました。林の中に入ったら理助もあんまり急がないやうになりました。又じっさい急げないやうでした。傾斜もよほど出てきたのでした。
 十五分も柏の中を潜ったとき理助は少し横の方へまがってからだをかゞめてそこらをしらべてゐましたが間もなく立ちどまりました。そしてまるで低い声で、
「さあ来たぞ。すきな位とれ。左の方へは行くなよ。崖だから。」
 そこは柏や楢の林の中の小さな空地でした。私はまるでぞくぞくしました。はぎぼだしがそこにもこゝにも盛りになって生えてゐるのです。理助は炭俵をおろして尤《もっとも》らしく口をふくらせてふうと息をついてから又言ひました。
「いゝか。はぎぼだしには茶いろのと白いのとあるけれど白いのは硬くて筋が多くてだめだよ。茶いろのをとれ。」
「もうとってもいゝか。」私はききました。
「うん。何へ入れてく。さうだ。羽織へ包んで行け。」
「うん。」私は羽織をぬいで草に敷きました。
 理助はもう片っぱしからとって炭俵の中へ入れました。私もとりました。ところが理助のとるのはみんな白いのです。白いのばかりえらんでどしどし炭俵の中へ投げ込んでゐるのです。私はそこでしばらく呆《あき》れて見てゐました。
「何をぼんやりしてるんだ。早くとれとれ。」理助が云ひました。
「うん。けれどお前はなぜ白いのばかりとるの。」私がききました。
「おれのは漬物《つけもの》だよ。お前のうちぢゃ蕈《きのこ》の漬物なんか喰べないだらうから茶いろのを持って行った方がいゝやな。煮て食ふんだらうから。」
 私はなるほどと思ひましたので少し理助を気の毒なやうな気もしながら茶いろのをたくさんとりました。羽織に包まれないやうになってもまだとりました。
 日がてって秋でもなかなか暑いのでした。
 間もなく蕈も大ていなくなり理助は炭俵一ぱいに詰めたのをゆるく両手で押すやうにしてそれから羊歯《しだ》の葉を五六枚のせて繩《なは》で上をからげました。
「さあ戻るぞ。谷を見て来るかな。」理助は汗をふきながら右の方へ行きました。私もついて行きました。しばらくすると理助はぴたっととまりました。それから私をふり向いて私の腕を押へてしまひました。
「さあ、見ろ、どうだ。」
 私は向ふを見ました。あのまっ赤な火のやうな崖《がけ》だったのです。私はまるで頭がしいんとな
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