はどの辺だか見て置かないと今度来るときわからないよ。」慶次郎が言ひました。
「うん。それから去年のもさがして置かないと。兄さんにでも来て貰《もら》はうか。あしたは来れないし。」
「あした学校を下ってからでもいゝぢゃないか。」慶次郎は私の兄さんには知らせたくない風でした。
「帰りに暗くなるよ。」
「大丈夫さ。とにかくさがして置かう。崖《がけ》はぢきだらうか。」
 私たちは籠はそこへ置いたまま崖の方へ歩いて行きました。そしたらまだまだと思ってゐた崖がもうすぐ目の前に出ましたので私はぎくっとして手をひろげて慶次郎の来るのをとめました。
「もう崖だよ。あぶない。」
 慶次郎ははじめて崖を見たらしくいかにもどきっとしたらしくしばらくなんにも云ひませんでした。
「おい、やっぱり、すると、あすこは去年のところだよ。」私は言ひました。
「うん。」慶次郎は少しつまらないといふやうにうなづきました。
「もう帰らうか。」私は云ひました。
「帰らう。あばよ。」と慶次郎は高く向ふのまっ赤な崖に叫びました。
「あばよ。」崖《がけ》からこだまが返って来ました。
 私はにはかに面白くなって力一ぱい叫びました。
「ホウ、居たかぁ。」
「居たかぁ。」崖がこだまを返しました。
「また来るよ。」慶次郎が叫びました。
「来るよ。」崖が答へました。
「馬鹿《ばか》。」私が少し大胆になって悪口をしました。
「馬鹿。」崖も悪口を返しました。
「馬鹿野郎」慶次郎が少し低く叫びました。
 ところがその返事はたゞごそごそごそっとつぶやくやうに聞えました。どうも手がつけられないと云ったやうにも又そんなやつらにいつまでも返事してゐられないなと自分ら同志で相談したやうにも聞えました。
 私どもは顔を見合せました。それから俄《には》かに恐《こは》くなって一緒に崖をはなれました。
 それから籠《かご》を持ってどんどん下りました。二人ともだまってどんどん下りました。雫《しづく》ですっかりぬればらや何かに引っかゝれながらなんにも云はずに私どもはどんどんどんどん遁《に》げました。遁げれば遁げるほどいよいよ恐くなったのです。うしろでハッハッハと笑ふやうな声もしたのです。
 ですから次の年はたうとう私たちは兄さんにも話して一緒にでかけたのです。



底本:「新修宮沢賢治全集 第九巻」筑摩書房
   1979(昭和54)年7月15日初版第1刷発行
   1983(昭和58)年2月20日初版第5刷発行
底本の親本:「校本宮澤賢治全集」筑摩書房
入力:田代信行
校正:伊藤時也
2000年9月13日公開
2005年10月18日修正
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