泉ある家
宮沢賢治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)今日《きょう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一|間《けん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#小書き平仮名こ、128−12]
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これが今日《きょう》のおしまいだろう、と云《い》いながら斉田《さいた》は青じろい薄明《はくめい》の流《なが》れはじめた県道に立って崖《がけ》に露出《ろしゅつ》した石英斑岩《せきえいはんがん》から一かけの標本《ひょうほん》をとって新聞紙に包んだ。
富沢《とみざわ》は地図のその点に橙《だいだい》を塗《ぬ》って番号《ばんごう》を書きながら読んだ。斉田はそれを包みの上に書きつけて背嚢《はいのう》に入れた。
二人は早く重《おも》い岩石の袋《ふくろ》をおろしたさにあとはだまって県道を北へ下った。
道の左には地図にある通りの細い沖積地《ちゅうせきち》が青金《あおがね》の鉱山《こうざん》を通って来る川に沿《そ》って青くけむった稲《いね》を載《の》せて北へ続《つづ》いていた。山の上では薄明穹《はくめいきゅう》の頂《いただき》が水色に光った。俄《にわ》かに斉田が立ちどまった。道の左側《ひだりがわ》が細い谷になっていてその下で誰《だれ》かが屈《かが》んで何かしていた。見るとそこはきれいな泉《いずみ》になっていて粘板岩《ねんばんがん》の裂《さ》け目から水があくまで溢《あふ》れていた。
(一寸《ちょっと》おたずねいたしますが、この辺《へん》に宿屋《やどや》があるそうですがどっちでしょうか。)
浴衣《ゆかた》を着《き》た髪《かみ》の白い老人《ろうじん》であった。その着こなしも風采《ふうさい》も恩給《おんきゅう》でもとっている古い役人《やくにん》という風だった。蕗《ふき》を泉《いずみ》に浸《ひた》していたのだ。
(宿屋ここらにありません。)
(青金《あおがね》の鉱山《こうざん》できいて来たのですが、何でも鉱山の人たちなども泊《と》めるそうで。)
老人《ろうじん》はだまってしげしげと二人の疲《つか》れたなりを見た。二人とも巨《おお》きな背嚢《はいのう》をしょって地図を首からかけて鉄槌《かなづち》を持《も》っている。そしてまだまるでの子供《こども》だ。
(どっちからお出《い》でになりました。)
(郡《ぐん》から土性調査《どせいちょうさ》をたのまれて盛岡《もりおか》から来たのですが。)
(田畑《たはた》の地味《ちみ》のお調《しら》べですか。)
(まあそんなことで。)
老人は眉《まゆ》を寄《よ》せてしばらく群青《ぐんじょう》いろに染《そ》まった夕ぞらを見た。それからじつに不思議《ふしぎ》な表情《ひょうじょう》をして笑《わら》った。
(青金で誰《だれ》か申《もう》し上げたのはうちのことですが、何分《なにぶん》汚《きた》ないし、いろいろ失礼《しつれい》ばかりあるので。)(いいえ、何もいらないので。)
(それではそのみちをおいでください。)
老人はわずかに腰《こし》をまげて道と並行《へいこう》にそのまま谷をさがった。五、六歩行くとそこにすぐ小さな柾屋《まさや》があった。みちから一|間《けん》ばかり低《ひく》くなって蘆《あし》をこっちがわに塀《へい》のように編《あ》んで立てていたのでいままで気がつかなかったのだ。老人《ろうじん》は蘆《あし》の中につくられた四角なくぐりを通って家の横《よこ》に出た。二人はみちから家の前におりた。
(とき、とき、お湯《ゆ》持《も》って来《こ》。)老人は叫《さけ》んだ。家のなかはしんとして誰《だれ》も返事《へんじ》をしなかった。けれども富沢《とみざわ》はその夕暗《ゆうやみ》と沈黙《ちんもく》の奥《おく》で誰かがじっと息《いき》をこらして聴《き》き耳をたてているのを感《かん》じた。
(いまお湯をもって来ますから。)老人はじぶんでとりに行く風だった。(いいえ。さっきの泉《いずみ》で洗《あら》いますから、下駄《げた》をお借《か》りして。)老人は新らしい山桐《やまぎり》の下駄とも一つ縄緒《なわお》の栗《くり》の木下駄を気の毒《どく》そうに一つもって来た。
(どうもこんな下駄で。)(いいえもう結構《けっこう》で。)
二人はわらじを解《と》いてそれからほこりでいっぱいになった巻脚絆《まきぎゃはん》をたたいて巻き俄《にわ》かに痛《いた》む膝《ひざ》をまげるようにして下駄をもって泉に行った。泉はまるで一つの灌漑《かんがい》の水路《すいろ》のように勢《いきおい》よく岩の間から噴《ふ》き出ていた。斉田《さいた》はつくづくかがんでその暗《くら》くなった裂《さ》け目を見て云《い》った。(断層泉《だんそうせん》だな。)(そうか。)
富沢は蕗《ふき》をつけてある下のところに足を入れてシャツをぬいで汗《あせ》をふきながら云った。
頭を洗《あら》ったり口をそそいだりして二人はさっきのくぐりを通って宿《やど》へ帰って来た。その煤《すす》けた天照大神《あまてらすおおみかみ》と書いた掛物《かけもの》の床《とこ》の間《ま》の前には小さなランプがついて二|枚《まい》の木綿《もめん》の座布団《ざぶとん》がさびしく敷《し》いてあった。向《むこ》うはすぐ台所《だいどころ》の板《いた》の間《ま》で炉《ろ》が切ってあって青い煙《けむり》があがりその間にはわずかに低《ひく》い二|枚折《まいおり》の屏風《びょうぶ》が立っていた。
二人はそこにあったもみくしゃの単衣《ひとえ》を汗《あせ》のついたシャツの上に着《き》て今日の仕事《しごと》の整理《せいり》をはじめた。富沢《とみざわ》は色鉛筆《いろえんぴつ》で地図を彩《いろど》り直したり、手帳《てちょう》へ書き込《こ》んだりした。斉田《さいた》は岩石の標本番号《ひょうほんばんごう》をあらためて包《つつ》み直したりレッテルを張《は》ったりした。そしてすっかり夜になった。
さっきから台所でことことやっていた二十《はたち》ばかりの眼《め》の大きな女がきまり悪《わる》そうに夕食を運《はこ》んで来た。その剥《は》げた薄《うす》い膳《ぜん》には干《ほ》した川魚を煮《に》た椀《わん》と幾片《いくへん》かの酸《す》えた塩漬《しおづ》けの胡瓜《きゅうり》を載《の》せていた。二人はかわるがわる黙《だま》って茶椀《ちゃわん》を替《か》えた。
(この家はあのおじいさんと今の女の人と二人切りなようだな。)膳が下げられて疲《つか》れ切ったようにねそべりながら斉田が低く云《い》った。
(うん。あの女の人は孫娘《まごむすめ》らしい。亭主《ていしゅ》はきっと礦山《こうざん》へでも出ているのだろう。)ひるの青金《あおがね》の黄銅鉱《おうどうこう》や方解石《ほうかいせき》に柘榴石《ざくろいし》のまじった粗鉱《そこう》の堆《たい》を考えながら富沢は云った。女はまた入って来た。そして黙って押入《おしい》れをあけて二枚のうすべりといの角枕《かくまくら》をならべて置《お》いてまた台所の方へ行った。
二人はすっかり眠《ねむ》る積《つも》りでもなしにそこへ長くなった。そしてそのままうとうとした。
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ダーダーダーダーダースコダーダー
[#ここで字下げ終わり]
強い老人《ろうじん》らしい声が剣舞《けんばい》の囃《はや》しを叫《さけ》ぶのにびっくりして富沢《とみざわ》は目をさました。台所の方で誰《だれ》か三、四人の声ががやがやしているそのなかでいまの声がしたのだ。
ランプがいつか心《しん》をすっかり細められて障子《しょうじ》には月の光が斜《なな》めに青じろく射《さ》している。盆《ぼん》の十六日の次《つぎ》の夜なので剣舞の太鼓《たいこ》でも叩《たた》いたじいさんらなのかそれともさっきのこのうちの主人《しゅじん》なのかどっちともわからなかった。
(踊《おど》りはねるも三十がしまいって、さ。あんまりじさまの浮《う》かれだのも見だぐなぃもんさ。)むっとしたような慓悍《ひょうかん》な三十台の男の声がした。そしてしばらくしんとした。
(雀《すずめ》百まで踊り忘《わす》れずでさ。)さっきの女らしい細い声が取《と》りなした。
(女《あね》※[#小書き平仮名こ、128−12]引ぱりも百までさ。)またその慓悍な声が刺《さ》すように云《い》った。そしてまたしんとした。そして心配《しんぱい》そうな息《いき》をこくりとのむ音が近くにした。富沢は蚊帳《かや》の外にここの主人が寝《ね》ながらじっと台所の方へ耳をすましているのを半分|夢《ゆめ》のように見た。
(さあ帰って寝るかな。もっ切り二っつだな。そいでぁこいづと。)(戻《もど》るすか。)さっきの女の声がした。こっちではきせるをたんたん続《つづ》けて叩いていた。(亦《また》来るべぃさ。)何だか哀《あわ》れに云《い》って外へ出たらしい音がした。
あとはもう聞えないくらいの低《ひく》い物言《ものい》いで隣《とな》りの主人からは安心《あんしん》に似《に》たようなしずかな波動《はどう》がだんだんはっきりなった月あかりのなかを流《なが》れて来た。そして富沢《とみざわ》はまたとろとろした。次々《つぎつぎ》うつるひるのたくさんの青い山々の姿《すがた》や、きらきら光るもやの奥《おく》を誰《だれ》かが高く歌を歌いながら通ったと思ったら富沢はまた弱く呼《よ》びさまされた。おもての扉《と》を誰か酔《よ》ったものが歌いながら烈《はげ》しく叩《たた》いていて主人が「返事《へんじ》するな、返事するな。」と低く娘《むすめ》に云っていた。さっきの男も帰って娘もどこかに寝ているらしかった。「寝たのか、まだ明るぞ。起《お》きろ。」
外ではまたはげしくどなった。
(ああこんなに眠《ねむ》らなくては明日の仕事《しごと》がひどい。)富沢は思いながら床《とこ》の間《ま》の方にいた斉田《さいた》を見た。
斉田もはっきり目をあいていて低く鉱夫《こうふ》だなと云った。富沢は手をふって黙《だま》っていろと云った。こんなときものを云うのは老人にどうしても気の毒《どく》でたまらなかった。
外ではいよいよ暴《あば》れ出した。とうとう娘が屏風《びょうぶ》の向《むこ》うで起きた。そして(酔ったぐれ、大きらいだ。)とどうやらこっちを見ながらわびるように誘《さそ》うようになまめかしく呟《つぶや》いた。そして足音もなく土間《どま》へおりて戸をあけた。外ではすぐしずまった。女はいろいろ細い声で訴《うった》えるようにしていた。男は酔《よ》っていないような声でみじかく何か訊《き》きかえしたりしていた。それから二人はしばらく押問答《おしもんどう》をしていたが間もなく一人ともつかず二人ともつかず家のなかにはいって来てわずかに着物《きもの》のうごく音などした。そしていっぱいに気兼《きが》ねや恥《はじ》で緊張《きんちょう》した老人《ろうじん》が悲《かな》しくこくりと息《いき》を呑《の》む音がまたした。
底本:「ポラーノの広場」角川文庫、角川書店
1996(平成8)年6月25日初版発行
底本の親本:「新校本 宮澤賢治全集」筑摩書房
1995(平成7)年5月
入力:ゆうき
校正:noriko saito
2009年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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