せん》だな。)(そうか。)
 富沢は蕗《ふき》をつけてある下のところに足を入れてシャツをぬいで汗《あせ》をふきながら云った。
 頭を洗《あら》ったり口をそそいだりして二人はさっきのくぐりを通って宿《やど》へ帰って来た。その煤《すす》けた天照大神《あまてらすおおみかみ》と書いた掛物《かけもの》の床《とこ》の間《ま》の前には小さなランプがついて二|枚《まい》の木綿《もめん》の座布団《ざぶとん》がさびしく敷《し》いてあった。向《むこ》うはすぐ台所《だいどころ》の板《いた》の間《ま》で炉《ろ》が切ってあって青い煙《けむり》があがりその間にはわずかに低《ひく》い二|枚折《まいおり》の屏風《びょうぶ》が立っていた。
 二人はそこにあったもみくしゃの単衣《ひとえ》を汗《あせ》のついたシャツの上に着《き》て今日の仕事《しごと》の整理《せいり》をはじめた。富沢《とみざわ》は色鉛筆《いろえんぴつ》で地図を彩《いろど》り直したり、手帳《てちょう》へ書き込《こ》んだりした。斉田《さいた》は岩石の標本番号《ひょうほんばんごう》をあらためて包《つつ》み直したりレッテルを張《は》ったりした。そしてすっかり夜になった。
 さっきから台所でことことやっていた二十《はたち》ばかりの眼《め》の大きな女がきまり悪《わる》そうに夕食を運《はこ》んで来た。その剥《は》げた薄《うす》い膳《ぜん》には干《ほ》した川魚を煮《に》た椀《わん》と幾片《いくへん》かの酸《す》えた塩漬《しおづ》けの胡瓜《きゅうり》を載《の》せていた。二人はかわるがわる黙《だま》って茶椀《ちゃわん》を替《か》えた。
(この家はあのおじいさんと今の女の人と二人切りなようだな。)膳が下げられて疲《つか》れ切ったようにねそべりながら斉田が低く云《い》った。
(うん。あの女の人は孫娘《まごむすめ》らしい。亭主《ていしゅ》はきっと礦山《こうざん》へでも出ているのだろう。)ひるの青金《あおがね》の黄銅鉱《おうどうこう》や方解石《ほうかいせき》に柘榴石《ざくろいし》のまじった粗鉱《そこう》の堆《たい》を考えながら富沢は云った。女はまた入って来た。そして黙って押入《おしい》れをあけて二枚のうすべりといの角枕《かくまくら》をならべて置《お》いてまた台所の方へ行った。
 二人はすっかり眠《ねむ》る積《つも》りでもなしにそこへ長くなった。そしてそのままうとうとした。
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ダーダーダーダーダースコダーダー
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 強い老人《ろうじん》らしい声が剣舞《けんばい》の囃《はや》しを叫《さけ》ぶのにびっくりして富沢《とみざわ》は目をさました。台所の方で誰《だれ》か三、四人の声ががやがやしているそのなかでいまの声がしたのだ。
 ランプがいつか心《しん》をすっかり細められて障子《しょうじ》には月の光が斜《なな》めに青じろく射《さ》している。盆《ぼん》の十六日の次《つぎ》の夜なので剣舞の太鼓《たいこ》でも叩《たた》いたじいさんらなのかそれともさっきのこのうちの主人《しゅじん》なのかどっちともわからなかった。
(踊《おど》りはねるも三十がしまいって、さ。あんまりじさまの浮《う》かれだのも見だぐなぃもんさ。)むっとしたような慓悍《ひょうかん》な三十台の男の声がした。そしてしばらくしんとした。
(雀《すずめ》百まで踊り忘《わす》れずでさ。)さっきの女らしい細い声が取《と》りなした。
(女《あね》※[#小書き平仮名こ、128−12]引ぱりも百までさ。)またその慓悍な声が刺《さ》すように云《い》った。そしてまたしんとした。そして心配《しんぱい》そうな息《いき》をこくりとのむ音が近くにした。富沢は蚊帳《かや》の外にここの主人が寝《ね》ながらじっと台所の方へ耳をすましているのを半分|夢《ゆめ》のように見た。
(さあ帰って寝るかな。もっ切り二っつだな。そいでぁこいづと。)(戻《もど》るすか。)さっきの女の声がした。こっちではきせるをたんたん続《つづ》けて叩いていた。(亦《また》来るべぃさ。)何だか哀《あわ》れに云《い》って外へ出たらしい音がした。
 あとはもう聞えないくらいの低《ひく》い物言《ものい》いで隣《とな》りの主人からは安心《あんしん》に似《に》たようなしずかな波動《はどう》がだんだんはっきりなった月あかりのなかを流《なが》れて来た。そして富沢《とみざわ》はまたとろとろした。次々《つぎつぎ》うつるひるのたくさんの青い山々の姿《すがた》や、きらきら光るもやの奥《おく》を誰《だれ》かが高く歌を歌いながら通ったと思ったら富沢はまた弱く呼《よ》びさまされた。おもての扉《と》を誰か酔《よ》ったものが歌いながら烈《はげ》しく叩《たた》いていて主人が「返事《へんじ》するな、返事するな。」と低く娘《むすめ》に云っていた。さ
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