た。さあ、こゝだおれを撲《なぐ》りにかゝるやつがあるぞ、遁《にげ》みちはちゃんときまってゐる、あしたの午《ひる》ころみんな仕事に出たころ係二十人一斉に自転車でやって来てそいつを押へてしまふ、斯う考へて税務署長はシラトリキキチに眼くばせして次を云ひました。
「おれの方では誰《たれ》の家の納屋の中に何斗あるか誰の家の床下に何升あるかちゃんと表になってあるのだ。」するとどうです、いまあれほど気が立ったみんなが一斉に面白さうにどっと吹き出したのです。もうだめだ、おしまひだ、しくじったと署長は思ひました。そしてもうすっかりぐるぐるして壇を下りてしまひました。
二、税務署長歓迎会
税務署長が壇を下りましたらすぐ名誉村長が笑ひながら少しかゞんで署長の前にやって来ました。そして礼を云ひました。
「たゞ今は実に有益なご講演を寔《まこと》に感謝いたします。何もございませんがいさゝか歓迎のしるしまで一献さしあげたいと存じます。ご迷惑は重々でございませうがどうかぢきそこまで御光来を願ひたう存じます。」
税務署長はいよいよ卒倒しさうになって
「いや、それはよろしい。」とかすれた声で返事しました。「では、」村長はみんなの方に向いて
「今晩の講演会はこれで閉会といたします。」と云ってから又署長たちの方に向き直って「さあ、ではどうぞ。」と右手で玄関の方を指しました。署長はなんとも変な気がしましたが仕方なくシラトリ属と一緒に村長たちに案内されて小学校の玄関を出すぐ一町ばかりさきの村会議員の家に行きました。村会議員の家は立派なもので五十畳の広間にはあかりがぞろっとともり正面には銀屏風《ぎんびゃうぶ》が立ってそこに二人は座らされました。すぐ村の有志たちが三十人ばかりきちんと座りました。たちまち立派な膳《ぜん》がならびたしかに税金を納めてある透明な黄いろないゝ酒が座をまはりはじめました。
みんなが交る交る税務署長のところへ盃《さかづき》を持ってやって来ました。
「いや、本日はお疲れでございませう。失礼ながら献盃《けんぱい》致しまする。」
「や、ありがたう、どうも悪口を云って済まなかった。どうも悪《にく》まれ商売でね、いやになるよ。」
「どう致しまして。閣下のやうな献身的のお方ばかりでしたら実に国家も大発展です。さあどうぞ。」
「はっはっは、いや、ありがたう。」なんて云ふ工合《ぐあひ》でシラトリキキチ氏の云ったやうにだんだんみんなの心は融《と》けて来たやうに見えましたが実は税務署長は決して油断をしないで絶えず左右に眼を配ってゐました。そのうちにいよいよみんなは酔ってしまってだんだん本音を吹いて来ました。
「や、署長さん。一杯いかゞ、どうです。ワッハッハ。濁り酒、味噌桶《みそをけ》に作るといふのはあんまり旧式だな。もっと最新法の方はいゝな。おい、署長さん。さあ、一杯いかゞ、私の盃をあなた取りませんか。閣下ぁ、ハッハッハ。さあ一杯、」
「いや、わかった、わかった。いや、今晩は実に酩《めい》ていした。辱《かたじ》けない。」
「ワッハッハ。やあ、今度はシラトリさん、さあ、おやりなさい。男子はすべからく決然たるところがなくてはだめですよ。さあ、高田の馬場で堀部安兵衛金丸が三十人を切ったのは実際酒の力だ、面白い、牛も酒を呑《の》むと酔ふといふのは面白い。さあ一杯。なかなかあなたは酒が強い。さあ一杯。」
一人が行ったと思ふと又一人が来るのでした。
「署長さん。はじめてお目通りを致します。」
「いやはじめて。」
「はじめて、はてなさっきも来ましたかな、二度目だ、ハッハッハ。署長さん、いや献杯、つゝしんで献杯|仕《つかまつ》ります。ハッハッハこの村の濁り酒はもう手に取るやうにわかってゐる、本当にか、さあ、本当ならいつでもやって来い。来るか、畜生、来て見やがれ。アッハッハ、失礼、署長さん署長さん、もう斯《か》うなったらいっそのこと無礼講にしませう。無礼講。おゝい、みんな無礼講だぞ、そもそもだ、濁密の害悪は国家も保証する、税務署も保証すると、ううぃ。献杯、いや献杯、」
「もう沢山、」
「遁《に》げるのか、遁げる気か。ようし、ようし、その気なら許さんぞ。献杯、さあ献杯だ、おゝい貴様ぁ。」
税務署長はもうすっかり酔ってゐました。シラトリ属も酔ってはゐました。けれども二人とも決して職業も忘れず又油断もしなかったのです。
それでももうぐたぐたになって何もかもわからないといふふりをしてゐました。それにくらべたら村の方の人たちこそ却《かへ》って本当に酔ってしまったのでした。そのうちに税務署長は少し酒の匂《にほひ》が変って来たのに気がつきました。たしかに今までの酒とはちがった酒が座をまはりはじめてゐました。署長は見ないふりをしながらよく気をつけて盃《さかづき》を見ましたが少し
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