った。鼻の横や耳の下には殊に濃く塗ったのだ。それからアスファルトの屋根材の継目に塗りつける黒いペイントを顎《あご》のとこへ大きな点につけてしばらくの間じっとそんな油や何かの乾くのを待ってたが、それがきれいに乾くとこんどは鏡台の引出しをあけてにせものの金歯を二枚出して犬歯へはめました。すると税務署長がすっかり変ってしまって請負師か何かの大将のやうに見えて来た。それから署長は押し入れからふだん魚釣りに行くときにつかふ古いきゅうくつな上着を出して着ておまけに乗馬ズボンと長靴《ながぐつ》をはいた。そして葉書入れを逆まにしてしばらく古い名刺をしらべてゐたがその中からトケウ乾物商サヘタコキチと書いたやつをえらんでうちかくしへ入れた。独りものの署長のことだから実際こんなことができたのだ。それから帽子をかぶり洋傘《かうもりがさ》を持って外へ出たけれども何と思ったかもう一ぺん長靴をぬいでそれを持って座敷へあがった。古い新聞紙を鏡の前の畳へ敷いて又長靴をはいてちゃんと立って鏡をのぞいてさあもうにかにかにかにかし出した。
それから俄《には》かにまじめになってしばらく顔をくしゃくしゃにしてゐたがいよいよ勇気に充《み》ちて来たらしく一ぺんに畳をはね越えておもてに飛び出し大股《おほまた》に通りをまがった。実にその晩の夜の十時すぎに勇敢な献身的なこの署長は町の安宿へ行って一晩とめて呉れと云った。そしたらまじめにお湯はどうかとか夕飯はいらないかとか宿屋では聞いた。署長はもうすっかり占めたと思ったのだ。そして次の朝早く署長はユグチュユモトの村へ向った。
村の入口に来てさっそく署長はあの小売酒屋へ行った。
「えゝ伺ひますが、この村の椎蕈《しひたけ》山はどちらでせうか。」
「椎蕈山かね。おまへさんは買付けに来たのかい。」
「へえ、さうです。」
「そんなら組合へ行ったらいゝだらう。」
「組合はどちらでございませう。」
「こっから十町ばかりこのみちをまっすぐに行くとね学校がある、」
知ってるとも、そこでおれが講演までしてひどい目にあってるぢゃないか、署長は腹の底で思った。
「その学校の向ひに産業組合事務所って看板がかけてあるからそこへ行って談《はな》したらいゝだらう。」
「さうですか。どうもありがたうございました。お蔭《かげ》さまでございます。」署長はまるで飛ぶやうにおもてに出てまた戻って来た。
「どうもせいがきれていけない。一杯くれませんか。えゝ瓶《びん》でない方。ううい。いゝ酒ですね。何て云ひます。」
「北の輝《てる》です。」
「これはいゝ酒だ。こゝへ来てこんな酒を呑《の》まうと思はなかった。どこで売ります。」
「私のとこでおろしもしますよ。」
「はあ、しかし町で買った方が安いでせう。」
「さうでもありません。」
「だめだ。持って行くにひどいから。」
署長は金を十銭おいて又飛び出した。それから組合の事務所へ行った。さあもうつかまへるぞ今日中につかまへるぞ、署長はひとりで思った。ところが事務所にはたった一人髪をてかてか分けて白いしごきをだらりとした若者が椅子《いす》に座って何か書いてゐた。こいつはうまいと署長は思った。
「今日は、いゝお天気でございます。ごめん下さい。私はトケイから参りました斯《か》う云ふものでございますがどうかお取次をねがひます。」署長はあの古い名刺をだいぶ黄いろになってるぞと思ひながら出した。若者は率直に立って「あゝさうすか。」と云って名刺を受けとったがあとは何も云はないでもぢもぢしてゐた。
「今朝はまだどなたもお見えにならないんですか。」
「はあ、見えないで。」若者は当惑したやうに答へた。
「えゝ、ではお待ちいたします、どうかお構ひなく。いかゞでございませう。本年は椎蕈《しひたけ》の方は。この雨でだいぶ豊作でございませうね。」
「あんまりよくないさうだよ。」
「はあいや匂《にほひ》やなにかは悪いでせうが生えることは沢山生えましてございませうね。」
「できたらう。」若者はだんだん言《ことば》も粗末になって来た。
「どうでせうね。わたしあ東京の乾物屋なんだが貸しの代りに酒をたくさんとったのがあるんだがどうでせう。椎蕈ととり代へるのを承知下さらないでせうかね。安くしますが。」
「さあだめだらう。酒はこっちにもあるんだから。」
「町から買ふんでせう。」
「いゝや」
「どこかに酒屋があるんですか。」
「酒屋ってわけぢゃない。」
さあ署長はどきっとしました。
「どこですか。」
「どこって、組合とはまた別だからね。」若者はぴたっと口をつぐんでしまひました。さあ税務署長はまるで踊りあがるやうな気がした。もうたゞ一息だ。少くとも月一石づつつくってあちこちへ四五升づつ売ってゐるやつがある。今日中にはきっとつかまへてしまふぞ。
「椎蕈山は遠いんですか。」
前へ
次へ
全10ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング