春と修羅 第二集
宮沢賢治

−−
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)紙巻煙草《シガーレット》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)右|掌《て》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「景+頁」、第3水準1−94−5]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Ich bin der Juni, der ju:ngste.〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
−−

  序


この一巻は
わたくしが岩手県花巻の
農学校につとめて居りました四年のうちの
終りの二年の手記から集めたものでございます
この四ヶ年はわたくしにとって
じつに愉快な明るいものでありました
先輩たち無意識なサラリーマンスユニオンが
近代文明の勃興以来
或いは多少ペテンもあったではありませうが
とにかく巨きな効果を示し
絶えざる努力と結束で
獲得しましたその結果
わたくしは毎日わづか二時間乃至四時間のあかるい授業と
二時間ぐらゐの軽い実習をもって
わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居りまして
近距離の汽車にも自由に乗れ
ゴム靴や荒い縞のシャツなども可成に自由に撰択し
すきな子供らにはごちそうもやれる
さういふ安固な待遇を得て居りました
しかしながらそのうちに
わたくしはだんだんそれになれて
みんながもってゐる着物の枚数や
毎食とれる蛋白質の量などを多少夥剰に計算したかの嫌ひがあります
そこでたゞいまこのぼろぼろに戻って見れば
いさゝか湯漬けのオペラ役者の気もしまするが
またなかなかになつかしいので
まづは友人藤原嘉藤治
菊池武雄などの勧めるまゝに
この一巻をもいちどみなさまのお目通りまで捧げます
たしかに捧げはしまするが
今度もたぶんこの出版のお方は
多分のご損をなさるだらうと思ひます
そこでまことにぶしつけながら
わたくしの敬愛するパトロン諸氏は
手紙や雑誌をお送りくだされたり
何かにいろいろお書きくださることは
気取ったやうではございますが
何とか願ひ下げいたしたいと存じます
わたくしはどこまでも孤独を愛し
熱く湿った感情を嫌ひますので
もし万一にもわたくしにもっと仕事をご期待なさるお方は
同人になれと云ったり
原稿のさいそくや集金郵便をお差し向けになったり
わたくしを苦しませぬやうおねがひしたいと存じます
けだしわたくしはいかにもけちなものではありますが
自分の畑も耕せば
冬はあちこちに南京ぶくろをぶらさげた水稲肥料の設計事務所も出して居りまして
おれたちは大いにやらう約束しようなどといふことよりは
も少し下等な仕事で頭がいっぱいなのでございますから
さう申したとて別に何でもありませぬ
北上川が一ぺん氾濫しますると
百万疋の鼠が死ぬのでございますが
その鼠らがみんなやっぱりわたくしみたいな云ひ方を
生きてるうちは毎日いたして居りまするのでございます
[#改ページ]

  二  空明と傷痍
[#地付き]一九二四、二、二〇、

※[#「景+頁」、第3水準1−94−5]気の海の青びかりする底に立ち
いかにもさういふ敬虔な風に
一きれ白い紙巻煙草《シガーレット》を燃すことは
月のあかりやらんかんの陰画
つめたい空明への貢献である
   ……ところがおれの右|掌《て》の傷は
     鋼青いろの等寒線に
     わくわくわくわく囲まれてゐる……
しかればきみはピアノを獲るの企画をやめて
かの中型のヴァイオルをこそ弾くべきである
燦々として析出される氷晶を
総身浴びるその謙虚なる直立は
営利の社団 賞を懸けての広告などに
きほひ出づるにふさはしからぬ
   ……ところがおれのてのひらからは
     血がまっ青に垂れてゐる……
  月をかすめる鳥の影
  電信ばしらのオルゴール
  泥岩を噛む水瓦斯と
  一列黒いみをつくし
   ……てのひらの血は
     ぽけっとのなかで凍りながら
     たぶんぼんやり燐光をだす……
しかも結局きみがこれらの忠言を
気軽に採択できぬとすれば
その厳粛な教会風の直立も
気海の底の一つの焦慮の工場に過ぎぬ
月賦で買った緑青いろの外套に
しめったルビーの火をともし
かすかな青いけむりをあげる
一つの焦慮の工場に過ぎぬ
[#改ページ]

  一四
[#地付き]一九二四、三、二四、

湧水《みづ》を呑まうとして
犬の毛皮の手袋などを泥に落し
あわててぴちゃぴちゃ
きれいな cress の波で洗ったりするものだから
きせるをくはへたり
日光に当ったりしてゐる
小屋葺替への村人たちが嗤ふのだ
[#改ページ]

  一六  五輪峠
[#地付き]一九二四、三、二四、

宇部何だって?……
宇部興左エ門?……
ずゐぶん古い名前だな
   何べんも何べんも降った雪を
   いつ誰が踏み堅めたでもなしに
   みちはほそぼそ林をめぐる
地主ったって
君の部落のうちだけだらう
野原の方ももってるのか
   ……それは部落のうちだけです……
それでは山林でもあるんだな
   ……十町歩もあるさうです……
それで毎日糸織を着て
ゐろりのへりできせるを叩いて
政治家きどりでゐるんだな
それは間もなく没落さ
いまだってもうマイナスだらう
   向ふは岩と松との高み
   その左にはがらんと暗いみぞれのそらがひらいてゐる
そこが二番の峠かな
まだ三つなどあるのかなあ
   がらんと暗いみぞれのそらの右側に
   松が幾本生えてゐる
   藪が陰気にこもってゐる
   なかにしょんぼり立つものは
   まさしく古い五輪の塔だ
   苔に蒸された花崗岩《みかげ》の古い五輪の塔だ
あゝこゝは
五輪の塔があるために
五輪峠といふんだな
ぼくはまた
峠がみんなで五っつあって
地輪峠水輪峠空輪峠といふのだらうと
たったいままで思ってゐた
地図ももたずに来たからな
   そのまちがった五つの峯が
   どこかの遠い雪ぞらに
   さめざめ青くひかってゐる
   消えようとしてまたひかる
このわけ方はいゝんだな
物質全部を電子に帰し
電子を真空異相といへば
いまとすこしもかはらない
   宇部五右衛門が目をつむる
   宇部五右衛門の意識はない
   宇部五右衛門の霊もない
   けれどももしも真空の
   こっちの側かどこかの側で
   いままで宇部五右衛門が
   これはおれだと思ってゐた
   さういふやうな現象が
   ぽかっと万一起るとする
   そこにはやっぱり類似のやつが
   これがおれだとおもってゐる
   それがたくさんあるとする
   互ひにおれはおれだといふ
   互ひにあれは雲だといふ
   互ひにこれは土だといふ
   さういふことはなくはない
   そこには別の五輪の塔だ
あ何だあいつは
     いま前に展く暗いものは
     まさしく北上の平野である
     薄墨いろの雲につらなり
     酵母の雲に朧ろにされて
     海と湛へる藍と銀との平野である
向ふの雲まで野原のやうだ
あすこらへんが水沢か
君のところはどの辺だらう
そこらの丘のかげにあたってゐるのかな
そこにさっきの宇部五右エ門が
やはりきせるを叩いてゐる
     雪がもうここにもどしどし降ってくる
     塵のやうに灰のやうに降ってくる
     つつじやこならの灌木も
     まっくろな温石いしも
     みんないっしょにまだらになる
[#改ページ]

  一七  丘陵地を過ぎる
[#地付き]一九二四、三、二四、

きみのところはこの前山のつづきだらう
やっぱりこんなごつごつ黝い岩なんだらう
松や何かの生え方なぞもこの式で
田などもやっぱり段になったりしてゐるんだな
いつころ行けばいゝかなあ
ぼくの都合はまあ来月の十日ころ
仕事の方が済んでから
木を植ゑる場所や何かも決めるから
ドイツ唐檜にバンクス松にやまならし
やまならしにもすてきにひかるやつがある
白樺は林のへりと憩みの草地に植ゑるとして
あとは杏の蒼白い花を咲かせたり
きれいにこさえとかないと
お嫁さんにも済まないからな
雪が降り出したもんだから
きみはストウブのやうに赤くなってるねえ
  水がごろごろ鳴ってゐる
さあ犬が吠えだしたぞ
さう云っちゃ失敬だが
まづ犬の中のカルゾーだな
喇叭のやうないゝ声だ
  ひばがきのなかの
  あっちのうちからもこっちのうちからも
  こどもらが叫びだしたのは
  けしかけてゐるつもりだらうか
  それともおれたちを気の毒がって
  とめようとしてゐるのだらうか
ははあきみは日本犬ですね
  生藁の上にねそべってゐる
  顔には茶いろな縞もある
どうしてぼくはこの犬を
こんなにばかにするのだらう
やっぱりしゃうが合はないのだな
  どうだ雲が地平線にすれすれで
そこに一すぢ白金環さへつくってゐる
[#改ページ]

  一八  人首町
[#地付き]一九二四、三、二五、

雪や雑木にあさひがふり
丘のはざまのいっぽん町は
あさましいまで光ってゐる
そのうしろにはのっそり白い五輪峠
五輪峠のいたゞきで
鉛の雲が湧きまた翔け
南につゞく種山ヶ原のなだらは
渦巻くひかりの霧でいっぱい
つめたい風の合間から
ひばりの声も聞えてくるし
やどり木のまりには艸いろのもあって
その梢から落ちるやうに飛ぶ鳥もある
[#改ページ]

  一九  晴天恣意
[#地付き]一九二四、三、二五、

つめたくうららかな蒼穹のはて
五輪峠の上のあたりに
白く巨きな仏頂体が立ちますと
数字につかれたわたくしの眼は
ひとたびそれを異の空間の
高貴な塔とも愕ろきますが
畢竟あれは水と空気の散乱系
冬には稀な高くまばゆい積雲です
とは云へそれは再考すれば
やはり同じい大塔婆
いたゞき八千尺にも充ちる
光厳浄の構成です
あの天末の青らむま下
きらゝに氷と雪とを鎧ひ
樹や石塚の数をもち
石灰、粘板、砂岩の層と、
花崗班糲、蛇紋の諸岩、
堅く結んだ準平原は、
まこと地輪の外ならず、
水風輪は云はずもあれ、
白くまばゆい光と熱、
電、磁、その他の勢力は
アレニウスをば俟たずして
たれか火輪をうたがはん
もし空輪を云ふべくば
これら総じて真空の
その顕現を超えませぬ
斯くてひとたびこの構成は
五輪の塔と称すべく
秘奥は更に二義あって
いまはその名もはゞかるべき
高貴の塔でもありますので
もしも誰かがその樹を伐り
あるいは塚をはたけにひらき
乃至はそこらであんまりひどくイリスの花をとりますと
かういふ青く無風の日なか
見掛けはしづかに盛りあげられた
あの玉髄の八雲のなかに
夢幻に人は連れ行かれ
見えない数個の手によって
かゞやくそらにまっさかさまにつるされて
槍でづぶづぶ刺されたり
頭や胸を圧《お》し潰されて
醒めてははげしい病気になると
さうひとびとはいまも信じて恐れます
さてそのことはとにかくに
雲量計の横線を
ひるの十四の星も截り
アンドロメダの連星も
しづかに過ぎるとおもはれる
そんなにもうるほひかゞやく
碧瑠璃の天でありますので
いまやわたくしのまなこも冴え
ふたゝび陰気な扉《ドア》を排して
あのくしゃくしゃの数字の前に
かゞみ込まうとしますのです
[#改ページ]

       塩水撰・浸種
[#地付き]一九二四、三、三〇、

塩水撰が済んでもういちど水を張る
陸羽一三二号
これを最後に水を切れば
穎果の尖が赤褐色で
うるうるとして水にぬれ
一つぶづつが苔か何かの花のやう
かすかにりんごのにほひもする
笊に顔を寄せて見れば
もう水も切れ俵にうつす
日ざしのなかの一三二号
青ぞらに電線は伸び、
赤楊はあちこちガラスの巨きな籠を盛る、
山の尖りも氷の稜も
あんまり淡くけむってゐて
まるで光と香ばかりでできてるやう

次へ
全11ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング