この谷なのに
こゝでは尾根が消えてゐる
どこからか葡萄のかをりがながれてくる
あゝ栗の花
向ふの青い草地のはてに
月光いろに盛りあがる
幾百本の年経た栗の梢から
風にとかされきれいなかげろふになって
いくすぢもいくすぢも
こゝらを東へ通ってゐるのだ
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  三六九  岩手軽便鉄道 七月(ジャズ)
[#地付き]一九二五、七、一九、

ぎざぎざの班糲岩の岨づたひ
膠質のつめたい波をながす
北上第七支流の岸を
せはしく顫へたびたびひどくはねあがり
まっしぐらに西の野原に奔けおりる
岩手軽便鉄道の
今日の終りの列車である
ことさらにまぶしさうな眼つきをして
夏らしいラヴスィンをつくらうが
うつうつとしてイリドスミンの鉱床などを考へようが
木影もすべり
種山あたり雷の微塵をかがやかし
列車はごうごう走ってゆく
おほまつよひぐさの群落や
イリスの青い火のなかを
狂気のやうに踊りながら
第三紀末の紅い巨礫層の截り割りでも
ディアラヂットの崖みちでも
一つや二つ岩が線路にこぼれてようと
積雲が灼けようと崩れようと
こちらは全線の終列車
シグナルもタブレットもあったもんでなく
とび乗りのできないやつは乗せないし
とび降りぐらゐやれないものは
もうどこまででも連れて行って
北極あたりの大避暑市でおろしたり
銀河の発電所や西のちぢれた鉛の雲の鉱山あたり
ふしぎな仕事に案内したり
谷間の風も白い花火もごっちゃごちゃ
接吻《キス》をしようと詐欺をやらうと
ごとごとぶるぶるゆれて顫へる窓の玻璃《ガラス》
二町五町の山ばたも
壊れかかった香魚《あゆ》やなも
どんどんうしろへ飛ばしてしまって
ただ一さんに野原をさしてかけおりる
      本社の西行各列車は
      運行敢て軌によらざれば
      振動けだし常ならず
      されどまたよく鬱血をもみさげ
       ……Prrrrr Pirr!……
      心肝をもみほごすが故に
      のぼせ性こり性の人に効あり
さうだやっぱりイリドスミンや白金|鉱区《やま》の目論見は
鉱染よりは砂鉱の方でたてるのだった
それとももいちど阿原峠や江刺堺を洗ってみるか
いいやあっちは到底おれの根気の外だと考へようが
恋はやさし野べの花よ
一生わたくしかはりませんと
騎士の誓約強いベースで鳴りひびかうが
そいつもこいつもみんな地塊の夏の泡
いるかのやうに踊りながらはねあがりながら
もう積雲の焦げたトンネルも通り抜け
緑青を吐く松の林も
続々うしろへたたんでしまって
なほいっしんに野原をさしてかけおりる
わが親愛なる布佐機関手が運転する
岩手軽便鉄道の
最後の下り列車である
[#改ページ]

  三七〇
[#地付き]一九二五、八、一〇、

   ……朝のうちから
     稲田いちめん雨の脚……
駅の出口のカーヴのへんは
X形の信号標や
はしごのついた電柱で
まづは巨きな風の廊下といったふう
ひどく明るくこしらへあげた
   ……せいせいとした穂孕みごろ
     稲にはかゝる水けむり……
親方は
信号標のま下に立って
びしゃびしゃ雨を浴びながら
じっと向ふを見詰めてゐる
   ……※[#歌記号、1−3−28]雨やら雲やら向ふは暗いよと……
そのこっちでは工夫が二人
つるはしをもちしょんぼりとして
三べん四へん稲びかりから漂白される
   ……※[#歌記号、1−3−28]くらい山根に滝だのあるよと……
そのまたこっちのプラットフォーム
駅長室のはしらには
夜のつゞきの黄いろなあかり
   ……※[#歌記号、1−3−28]雨やら雲やら向ふは……
雨の中から
黒いけむりがもくもく湧いて
機関車だけが走ってくる
ずゐぶん長い煙突だけれども
まっ正直に稲妻も浴び
浅黄服着た火夫もわらって顔を出し
雨だの稲だのさっと二つに分けながら
地響きさせて走ってくれば
親方もにんがり笑ひ
工夫も二人腕を組む
   ……※[#歌記号、1−3−28]雨やら雲やら……
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  三七二  渓にて
[#地付き]一九二五、八、一〇、

うしろでは滝が黄いろになって
どんどん弧度を増してゐるし
むじな色の雲は
谷いっぱいのいたやの脚をもう半分まで降りてゐる
しかもこゝだけ
ちゃうど直径一米
雲から掘り下げた石油井戸ともいふ風に
ひどく明るくて玲瓏として
雫にぬれたしらねあふひやぜんまいや
いろいろの葉が青びかりして
風にぶるぶるふるへてゐる
早くもぴしゃっといなびかり
立派に青じろい大静脈のかたちである
さあ鳴りだした
そこらの蛇紋岩橄欖岩みんなびりびりやりだした
よくまあこゝらのいたやの木が
こんなにがりがり鳴るなかで
ぽたりと雫を落したり
じっと立ったりしてゐるもんだ
早く走って下りないと
下流でわたって行
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