こへ行ってしまったかわからないことが
なんといふいゝことだらう……
かなしさは空明から降り
黒い鳥の鋭く過ぎるころ
秋の鮎のさびの模様が
そらに白く数条わたる
[#改ページ]
一七九
[#地付き]一九二四、八、一七、
北いっぱいの星ぞらに
ぎざぎざ黒い嶺線が
手にとるやうに浮いてゐて
幾すぢ白いパラフ※[#小書き片仮名ヰ、391−6]ンを
つぎからつぎと噴いてゐる
そこにもくもく月光を吸ふ
蒼くくすんだ海綿体《カステーラ》
萱野十里もをはりになって
月はあかるく右手の谷に南中し
みちは一すぢしらしらとして
椈の林にはひらうとする
……あちこち白い楢の木立と
降るやうな虫のジロフォン……
橙いろと緑との
花粉ぐらゐの小さな星が
互にさゝやきかはすがやうに
黒い露岩の向ふに沈み
山はつぎつぎそのでこぼこの嶺線から
パラフ※[#小書き片仮名ヰ、392−5]ンの紐をとばしたり
突然銀の挨拶を
上流《かみ》の仲間に抛げかけたり
Astilbe argentium
Astilbe platinicum
いちいちの草穂の影さへ落ちる
この清澄な昧爽ちかく
あゝ東方の普賢菩薩よ
微かに神威を垂れ給ひ
曾つて説かれし華厳のなか
仏界形円きもの
形花台の如きもの
覚者の意志に住するもの
衆生の業にしたがふもの
この星ぞらに指し給へ
……点々白い伐株と
まがりくねった二本のかつら……
ひとすぢ蜘蛛の糸ながれ
ひらめく萱や
月はいたやの梢にくだけ
木影の窪んで鉛の網を
わくらばのやうに飛ぶ蛾もある
[#改ページ]
一八一 早池峰山巓
[#地付き]一九二四、八、一七、
あやしい鉄の隈取りや
数の苔から彩られ
また捕虜岩《ゼノリス》の浮彫と
石絨の神経を懸ける
この山巓の岩組を
雲がきれぎれ叫んで飛べば
露はひかってこぼれ
釣鐘人蔘《ブリューベル》のいちいちの鐘もふるへる
みんなは木綿《ゆふ》の白衣をつけて
南は青いはひ松のなだらや
北は渦巻く雲の髪
草穂やいはかがみの花の間を
ちぎらすやうな冽たい風に
眼もうるうるして息《い》吹きながら
踵《くびす》を次いで攀ってくる
九旬にあまる旱天《ひでり》つゞきの焦燥や
夏蚕飼育の辛苦を了へて
よろこびと寒さとに泣くやうにしながら
たゞいっしんに登ってくる
……向ふではあたらしいぼそぼその雲が
まっ白な火になって燃える……
ここはこけももとはなさくうめばちさう
かすかな岩の輻射もあれば
雲のレモンのにほひもする
[#改ページ]
一八四 春
[#地付き]一九二四、八、二二、
空気がぬるみ
沼には鷺百合の花が咲いた
むすめたちは
みなつややかな黒髪をすべらかし
あたらしい紺のペッティコートや
また春らしい水いろの上着
プラットフォームの陸橋の段のところでは
赤縞のずぼんをはいた老楽長が
そらこんな工合だといふふうに
楽譜を読んできかせてゐるし
山脈はけむりになってほのかにながれ
鳥は燕麦のたねのやうに
いくかたまりもいくかたまりも過ぎ
青い蛇はきれいなはねをひろげて
そらのひかりをとんで行く
ワルツ第CZ号の列車は
まだ向ふのぷりぷり顫ふ地平線に
その白いかたちを見せてゐない
[#改ページ]
一八四 「春」変奏曲
[#地付き]一九二四、八、二二、
[#地付き]一九三三、七 、五、
いろいろな花の爵やカップ、
それが厳めしい蓋を開けて、
青や黄いろの花粉を噴くと、
そのあるものは
片っぱしから沼に落ちて
渦になったり条になったり
ぎらぎら緑の葉をつき出した水ぎぼうしの株を
あっちへこっちへ避けてしづかに滑ってゐる
ところがプラットフォームにならんだむすめ
そのうちひとりがいつまでたっても笑ひをやめず
みんなが肩やせなかを叩き
いろいろしてももうどうしても笑ひやめず
(ギルダちゃんたらいつまでそんなに笑ふのよ)
(あたし……やめようとおも……ふんだけれど……)
(水を呑んだらいゝんぢゃあないの)
(誰かせなかをたゝくといゝわ)
(さっきのドラゴが何か悪気を吐いたのよ)
(眼がさきにをかしいの お口がさきにをかしいの?)
(そんなこときいたってしかたないわ)
(のどが……とっても……くすぐったい……の……)
(まあ大へんだわ あら楽長さんがやってきた)
(みんなこっちへかたまって、何かしたかい)
(ギルダちゃんとてもわらってひどいのよ)
(星葉木の胞子だらう
のどをああんとしてごらん
こっちの方のお日さまへ向いて
さうさう おゝ桃いろのいゝのどだ
やっぱりさうだ
星……葉木の胞子だな
つまり何だよ 星葉木の胞子にね
四本の紐があるんだな
そいつが息の出入のたんび
湿気の加減がかはるんで、
のどでのびた
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