ねむさもやはらかさもすっかり鳥のこゝろもち
ひるなら羊歯のやはらかな芽や
桜草《プリムラ》も咲いてゐたらう
みちの左の栗の林で囲まれた
蒼鉛いろの影の中に
鍵なりをした巨きな家が一軒黒く建ってゐる
鈴は睡った馬の胸に吊され
呼吸につれてふるへるのだ
きっと馬は足を折って
蓐草の上にかんばしく睡ってゐる
わたくしもまたねむりたい
どこかで鈴とおんなじに啼く鳥がある
たとへばそれは青くおぼろな保護色だ
向ふの丘の影の方でも啼いてゐる
それからいくつもの月夜の峯を越えた遠くでは
風のやうに峡流も鳴る
[#改ページ]
[#地付き]一九二四、四、一九、
いま来た角に
二本の白楊《ドロ》が立ってゐる
雄花の紐をひっそり垂れて
青い氷雲にうかんでゐる
そのくらがりの遠くの町で
床屋の鏡がたゞ青ざめて静まるころ
芝居の小屋が塵を沈めて落ちつくころ
帽子の影がさういふふうだ
シャープ鉛筆 月印
紫蘇のかをりの青じろい風
かれ草が変にくらくて
水銀いろの小流れは
蒔絵のやうに走ってゐるし
そのいちいちの曲り目には
藪もぼんやりけむってゐる
一梃の銀の手斧が
水のなかだかまぶたのなかだか
ひどくひかってゆれてゐる
太吉がひるま
この小流れのどこかの角で
まゆみの藪を截ってゐて
帰りにこゝへ落したのだらう
なんでもそらのまんなかが
がらんと白く荒さんでゐて
風がをかしく酸っぱいのだ……
風……とそんなにまがりくねった桂の木
低《の》原の雲も青ざめて
ふしぎな縞になってゐる……し
すももが熟して落ちるやうに
おれも鉛筆をぽろっと落し
だまって風に溶けてしまはう
このういきゃうのかをりがそれだ
風……骨、青さ、
どこかで鈴が鳴ってゐる
どれぐらゐいま睡ったらう
青い星がひとつきれいにすきとほって
雲はまるで蝋で鋳たやうになってゐるし
落葉はみんな落した鳥の尾羽に見え
おれはまさしくどろの木の葉のやうにふるへる
[#改ページ]
七三 有明
[#地付き]一九二四、四、二〇、
あけがたになり
風のモナドがひしめき
東もけむりだしたので
月は崇巌なパンの木の実にかはり
その香気もまたよく凍らされて
はなやかに錫いろのそらにかゝれば
白い横雲の上には
ほろびた古い山彙の像が
ねづみいろしてねむたくうかび
ふたたび老いた北上川は
それみづからの青くかすんだ野原のなかで
支流を納めてわづかにひかり
そこにゆふべの盛岡が
アークライトの点綴や
また町なみの氷燈の列
ふく郁としてねむってゐる
滅びる最後の極楽鳥が
尾羽をひろげて息づくやうに
かうかうとしてねむってゐる
それこそここらの林や森や
野原の草をつぎつぎに食べ
代りに砂糖や木綿を出した
やさしい化性の鳥であるが
しかも変らぬ一つの愛を
わたしはそこに誓はうとする
やぶうぐひすがしきりになき
のこりの雪があえかにひかる
[#改ページ]
七四
[#地付き]一九二四、四、二〇、
東の雲ははやくも蜜のいろに燃え
丘はかれ草もまだらの雪も
あえかにうかびはじめまして
おぼろにつめたいあなたのよるは
もうこの山地のどの谷からも去らうとします
ひとばんわたくしがふりかへりふりかへり来れば
巻雲のなかやあるいはけぶる青ぞらを
しづかにわたっていらせられ
また四更ともおぼしいころは
やゝにみだれた中ぞらの
二つの雲の炭素棒のあひだに
古びた黄金の弧光のやうに
ふしぎな御《み》座を示されました
まことにあなたを仰ぐひとりひとりに
全くことなったかんがへをあたへ
まことにあなたのまどかな御座は
つめたい火口の数を示し
あなたの御座の運行は
公式にしたがってたがはぬを知って
しかもあなたが一つのかんばしい意志であり
われらに答へまたはたらきかける、
巨きなあやしい生物であること
そのことはいましわたくしの胸を
あやしくあらたに湧きたゝせます
あゝあかつき近くの雲が凍れば凍るほど
そこらが明るくなればなるほど
あらたにあなたがお吐きになる
エステルの香は雲にみちます
おゝ天子
あなたはいまにはかにくらくなられます
[#改ページ]
七五 北上山地の春
[#地付き]一九二四、四、二〇、
1
雪沓とジュートの脚絆
白樺は焔をあげて
熱く酸っぱい樹液を噴けば
こどもはとんびの歌をうたって
狸の毛皮を収穫する
打製石斧のかたちした
柱の列は煤でひかり
高くけはしい屋根裏には
いま朝餐の青いけむりがいっぱいで
大迦藍《カセードラル》の穹窿《ドーム》のやうに
一本の光の棒が射してゐる
そのなまめいた光象の底
つめたい春のうまやでは
かれ草や雪の反照
明るい丘の風を恋ひ
馬が蹄をごとごと鳴らす
2
浅黄と紺の羅紗を着て
やなぎは蜜の花を噴き
鳥はながれる丘丘を
馬はあやしく急いでゐる
息熱
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