にしよう。安心しな。」すると外の支那人は、やっと胸をなでおろしたらしく、ほおという息の声も、ぽんぽんと足を叩《たた》いている音も聞こえました。それから支那人は、荷物をしょったらしく、薬の紙箱は、互《たがい》にがたがたぶっつかりました。
「おい、誰だい。さっきおれにものを云いかけたのは。」
山男が斯《こ》う云いましたら、すぐとなりから返事がきました。
「わしだよ。そこでさっきの話のつづきだがね、おまえは魚屋の前からきたとすると、いま鱸《すずき》が一|匹《ぴき》いくらするか、またほしたふかのひれが、十|両《テール》に何|片《ぎん》くるか知ってるだろうな。」
「さあ、そんなものは、あの魚屋には居なかったようだぜ。もっとも章魚《たこ》はあったがなあ。あの章魚の脚つきはよかったなあ。」
「へい。そんないい章魚かい。わしも章魚は大すきでな。」
「うん、誰だって章魚のきらいな人はない。あれを嫌《きら》いなくらいなら、どうせろくなやつじゃないぜ。」
「まったくそうだ。章魚ぐらいりっぱなものは、まあ世界中にないな。」
「そうさ。お前はいったいどこからきた。」
「おれかい。上海《しゃんはい》だよ。」
「おまえはするとやっぱり支那人だろう。支那人というものは薬にされたり、薬にしてそれを売ってあるいたり気の毒なもんだな。」
「そうでない。ここらをあるいてるものは、みんな陳《ちん》のようないやしいやつばかりだが、ほんとうの支那人なら、いくらでもえらいりっぱな人がある。われわれはみな孔子聖人《こうしせいじん》の末なのだ。」
「なんだかわからないが、おもてにいるやつは陳というのか。」
「そうだ。ああ暑い、蓋《ふた》をとるといいなあ。」
「うん。よし。おい、陳さん。どうもむし暑くていかんね。すこし風を入れてもらいたいな。」
「もすこし待つよろしい。」陳が外で言いました。
「早く風を入れないと、おれたちはみんな蒸《む》れてしまう。お前の損になるよ。」
すると陳が外でおろおろ声《ごえ》を出しました。
「それ、もとも困る、がまんしてくれるよろしい。」
「がまんも何もないよ、おれたちがすきでむれるんじゃないんだ。ひとりでにむれてしまうさ。早く蓋をあけろ。」
「も二十分まつよろしい。」
「えい、仕方ない。そんならも少し急いであるきな。仕方ないな。ここに居るのはおまえだけかい。」
「いいや、まだたくさんいる。みんな泣いてばかりいる。」
「そいつはかあいそうだ。陳はわるいやつだ。なんとかおれたちは、もいちどもとの形にならないだろうか。」
「それはできる。おまえはまだ、骨まで六神丸になっていないから、丸薬さえのめばもとへ戻《もど》る。おまえのすぐ横に、その黒い丸薬の瓶《びん》がある。」
「そうか。そいつはいい、それではすぐ呑《の》もう。しかし、おまえさんたちはのんでもだめか。」
「だめだ。けれどもおまえが呑んでもとの通りになってから、おれたちをみんな水に漬《つ》けて、よくもんでもらいたい。それから丸薬をのめばきっとみんなもとへ戻る。」
「そうか。よし、引き受けた。おれはきっとおまえたちをみんなもとのようにしてやるからな。丸薬というのはこれだな。そしてこっちの瓶は人間が六神丸になるほうか。陳もさっきおれといっしょにこの水薬をのんだがね、どうして六神丸にならなかったろう。」
「それはいっしょに丸薬を呑んだからだ。」
「ああ、そうか。もし陳がこの丸薬だけ呑んだらどうなるだろう。変らない人間がまたもとの人間に変るとどうも変だな。」
そのときおもてで陳が、
「支那たものよろしいか。あなた、支那たもの買うよろしい。」
と云う声がしました。
「ははあ、はじめたね。」山男はそっとこう云っておもしろがっていましたら、俄《にわ》かに蓋があいたので、もうまぶしくてたまりませんでした。それでもむりやりそっちを見ますと、ひとりのおかっぱの子供が、ぽかんと陳の前に立っていました。
陳はもう丸薬を一つぶつまんで、口のそばへ持って行きながら、水薬とコップを出して、
「さあ、呑むよろしい。これながいきの薬ある。さあ呑むよろしい。」とやっています。
「はじめた、はじめた。いよいよはじめた。」行李《こうり》のなかでたれかが言いました。
「わたしビール呑む、お茶のむ、毒のまない。さあ、呑むよろしい。わたしのむ。」
そのとき山男は、丸薬を一つぶそっとのみました。すると、めりめりめりめりっ。
山男はすっかりもとのような、赤髪《あかがみ》の立派なからだになりました。陳はちょうど丸薬を水薬といっしょにのむところでしたが、あまりびっくりして、水薬はこぼして丸薬だけのみました。さあ、たいへん、みるみる陳のあたまがめらあっと延びて、いままでの倍になり、せいがめきめき高くなりました。そして「わあ。」と云いながら山男に
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