なあに、向ふの方の草の中で、牛はこっち向いて、だまって立ってるさ。)と思ひながら、ずんずん進んで行きました。
空はたいへん暗く重くなり、まはりがぼうっと霞《かす》んで来ました。冷たい風が、草を渡りはじめ、もう雲や霧が、切れ切れになって眼《め》の前をぐんぐん通り過ぎて行きました。
(あゝ、こいつは悪くなって来た。みんな悪いことはこれから集《たか》ってやって来るのだ。)と達二は思ひました。全くその通り、俄《にはか》に牛の通った痕は、草の中で無くなってしまひました。
(あゝ、悪くなった、悪くなった。)達二は胸をどきどきさせました。
草がからだを曲げて、パチパチ云ったり、さらさら鳴ったりしました。霧が殊に滋《しげ》くなって、着物はすっかりしめってしまひました。
達二は咽喉《のど》一杯叫びました。
「兄《あい》な[#「な」は小書き]。兄な[#「な」は小書き]。牛ぁ逃げだ。兄な[#「な」は小書き]。兄な[#「な」は小書き]。」
何の返事も聞えません。黒板から降る白墨の粉のやうな、暗い冷たい霧の粒が、そこら一面踊りまはり、あたりが俄にシインとして、陰気に陰気になりました。草からは、もう雫《しづく》の音がポタリポタリと聞えて来ます。
達二は早く、おぢいさんの所へ戻らうとして急いで引っ返しました。けれどもどうも、それは前に来た所とは違ってゐたやうでした。第一、薊《あざみ》があんまり沢山ありましたし、それに草の底にさっき無かった岩かけが、度々ころがってゐました。そしてたうとう聞いたこともない大きな谷が、いきなり眼の前に現はれました。すゝきが、ざわざわざわっと鳴り、向ふの方は底知れずの谷のやうに、霧の中に消えてゐるではありませんか。
風が来ると、芒《すすき》の穂は細い沢山の手を一ぱいのばして、忙《せは》しく振って、
「あ、西さん、あ、東さん。あ西さん。あ南さん。あ、西さん。」なんて云ってゐる様でした。
達二はあんまり見っともなかったので、目を瞑《つぶ》って横を向きました。そして急いで引っ返しました。小さな黒い道が、いきなり草の中に出て来ました。それは沢山の馬の蹄《ひづめ》の痕で出来上ってゐたのです。達二は、夢中で、短い笑ひ声をあげて、その道をぐんぐん歩きました。
けれども、たよりのないことは、みちのはゞが五寸ぐらゐになったり、又三尺ぐらゐに変ったり、おまけに何だかぐるっと廻ってゐるやうに思はれました。そして、たうとう、大きなてっぺんの焼けた栗《くり》の木の前まで来た時、ぼんやり幾つにも岐《わか》れてしまひました。
其処《そこ》は多分は、野馬の集まり場所であったでせう、霧の中に円い広場のやうに見えたのです。
達二はがっかりして、黒い道を又戻りはじめました。知らない草穂《くさぼ》が静かにゆらぎ、少し強い風が来る時は、どこかで何かが合図をしてでも居るやうに、一面の草が、それ来たっとみなからだを伏せて避けました。
空が光ってキインキインと鳴ってゐます。それからすぐ眼の前の霧の中に、家の形の大きな黒いものがあらはれました。達二はしばらく自分の眼を疑って立ちどまってゐましたが、やはりどうしても家らしかったので、こはごはもっと近寄って見ますと、それは冷たい大きな黒い岩でした。
空がくるくるくるっと白く揺らぎ、草がバラッと一度に雫《しづく》を払ひました。
(間違って原を向ふ側へ下りれば、もうおらは死ぬばかりだ)と達二は、半分思ふ様に半分つぶやくやうにしました。それから叫びました。
「兄《あい》な[#「な」は小書き]、兄な[#「な」は小書き]、居るが。兄な[#「な」は小書き]。」
又明るくなりました。草がみな一斉に悦《よろこ》びの息をします。
「伊佐戸《いさど》の町の、電気工夫の童《わらす》ぁ、山男に手足ぃ縛らへてたふうだ。」といつか誰《たれ》かの話した語《ことば》が、はっきり耳に聞えて来ます。
そして、黒い路が、俄《にはか》に消えてしまひました。あたりがほんのしばらくしいんとなりました。それから非常に強い風が吹いて来ました。
空が旗のやうにぱたぱた光って翻へり、火花がパチパチパチッと燃えました。
達二はいつか、草に倒れてゐました。
そんなことはみんなぼんやりしたもやの中の出来事のやうでした。牛が逃げたなんて、やはり夢だかなんだかわかりませんでした。風だって一体吹いてゐたのでせうか。
達二はみんなと一緒に、たそがれの県道を歩いてゐたのです。
橙《だいだい》色の月が、来た方の山からしづかに登りました。伊佐戸の町で燃す火が、赤くゆらいでゐます。
「さあ、みんな支度はいゝが。」誰かが叫びました。
達二はすっかり太い白いたすきを掛けてしまって、地面をどんどん踏みました。楢夫《ならを》さんが空に向って叫んだのでした。
「ダー、ダー、ダー
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