おまへも早く飛びだして来て
あすこの稜ある巌の上
葉のない黒い林のなかで
うつくしいソプラノをもった
おれたちのなかのひとりと
約束通り結婚しろ」と
繰り返し繰り返し
風がおもてで叫んでゐる
[#改ページ]

  〔胸はいま〕


胸はいま
熱くかなしい鹹湖であって
岸にはじつに二百里の
まっ黒な鱗木類の林がつゞく
そしていったいわたくしは
爬虫がどれか鳥の形にかはるまで
じっとうごかず
寝てゐなければならないのか
[#改ページ]

  〔こんなにも切なく〕


こんなにも切なく
青じろく燃えるからだを
巨きな槌でこもごも叩き
まだまだ練へなければならないと
さう云ってゐる誰かがある
たしかに二人巨きなやつらで
かたちはどうも見えないけれども
声はつゞけて聞こえてくる
 (モシャさんあなたのでない?)
返事がなくて
ぽろんと一音ハープが鳴る
[#改ページ]

  〔まなこをひらけば四月の風が〕


まなこをひらけば四月の風が
瑠璃のそらから崩れて来るし
もみぢは嫩いうすあかい芽を
窓いっぱいにひろげてゐる
ゆふべからの血はまだとまらず
みんなはわたくしをみつめてゐる

またなまぬるく湧くものを
吐くひとの誰ともしらず
あをあをとわたくしはねむる
いままたひたひを過ぎ行くものは
あの死火山のいたゞきの
清麗な一列の風だ
[#改ページ]

  夜
[#地付き]一九二九ヽ四ヽ二八ヽ

これで二時間
咽喉からの血はとまらない
おもてはもう人もあるかず
樹などしづかに息してめぐむ春の夜
こゝこそ春の道場で
菩薩は億の身をも棄て
諸仏はこゝに涅槃し住し給ふ故
こんやもうこゝで誰にも見られず
ひとり死んでもいゝのだと
いくたびさうも考をきめ
自分で自分に教へながら
またなまぬるく
あたらしい血が湧くたび
なほほのじろくわたくしはおびえる
[#改ページ]

  病中


これはいったいどういふわけだ
息がだんだん短くなって
いま完全にとまってゐる
とまってゐると苦しくなる
わざわざ息を吸ひ込むのかね
  ……室いっぱいの雪あかり……
折角息を吸ひ込んだのに
こんどもだんだん短くなる
立派な等比級数だ
公比はたしかに四分の三
 睡たい
  睡たい
   睡たい
睡たいからって睡ってしまへば死ぬのだらう
まさに発奮努力して
断じて眼を! 眼を※[#感嘆符二つ、1−8−75] 眼を※[#感嘆符三つ、541−2] ひらき
さやう
もいちど極めて大きな息すべし
今度も等比級数か
こいつはだめだ
誰に別れるひまもない
もう睡れ
睡ってしまへ
いや死ぬときでなし
発奮すべし
眼をひらき
手を胸に副へ息を吸へ
  ……母はくりやで水の音……
[#改ページ]

  〔そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう〕


そしてわたくしはまもなく死ぬのだらう
わたくしといふのはいったい何だ
何べん考へなおし読みあさり
さうともきゝかうも教へられても
結局まだはっきりしてゐない
わたくしといふのは
[以下空白]
[#改ページ]

  (一九二九年二月)


われやがて死なん
  今日又は明日
あたらしくまたわれとは何かを考へる
われとは畢竟法則の外の何でもない
  からだは骨や血や肉や
  それらは結局さまざまの分子で
  幾十種かの原子の結合
  原子は結局真空の一体
  外界もまたしかり
われわが身と外界とをしかく感じ
これらの物質諸種に働く
その法則をわれと云ふ
われ死して真空に帰するや
ふたゝびわれと感ずるや
ともにそこにあるのは一の法則のみ
その本原の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり
そのこと人に菩提の心あるを以て菩薩を信ず
菩薩を信ずる事を以て仏を信ず
諸仏無数数億而も仏もまた法なり
諸仏の本原の法これ妙法蓮華経なり
  帰命妙法蓮華経
  生もこれ妙法の生
  死もこれ妙法の死
  今身より仏身に至るまでよく持ち奉る



底本:「宮沢賢治全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年4月24日初版第1刷発行
   1990年6月25日第4刷
底本の親本:「校本宮沢賢治全集」筑摩書房
入力:今中一時
校正:浜野智
1998年6月5日公開
2005年10月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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