紫紺染について
宮沢賢治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)盛岡《もりおか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)東京|大博覧会《だいはくらんかい》
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盛岡《もりおか》の産物《さんぶつ》のなかに、紫紺染《しこんぞめ》というものがあります。
これは、紫紺という桔梗《ききょう》によく似《に》た草の根《ね》を、灰《はい》で煮出《にだ》して染《そ》めるのです。
南部《なんぶ》の紫紺染は、昔《むかし》は大へん名高いものだったそうですが、明治《めいじ》になってからは、西洋《せいよう》からやすいアニリン色素《しきそ》がどんどんはいって来ましたので、一向《いっこう》はやらなくなってしまいました。それが、ごくちかごろ、またさわぎ出されました。けれどもなにぶん、しばらくすたれていたものですから、製法《せいほう》も染方《そめかた》も一向わかりませんでした。そこで県工業会《けんこうぎょうかい》の役員《やくいん》たちや、工芸《こうげい》学校の先生は、それについていろいろしらべました。そしてとうとう、すっかり昔のようないいものが出来るようになって、東京|大博覧会《だいはくらんかい》へも出ましたし、二等賞《にとうしょう》も取《と》りました。ここまでは、大てい誰《だれ》でも知っています。新聞にも毎日出ていました。
ところが仲々《なかなか》、お役人方《やくにんがた》の苦心《くしん》は、新聞に出ているくらいのものではありませんでした。その研究中《けんきゅうちゅう》の一つのはなしです。
工芸《こうげい》学校の先生は、まず昔《むかし》の古い記録《きろく》に眼《め》をつけたのでした。そして図書館《としょかん》の二|階《かい》で、毎日黄いろに古びた写本《しゃほん》をしらべているうちに、遂《つい》にこういういいことを見附《みつ》けました。
「一、山男《やまおとこ》紫紺《しこん》を売りて酒《さけ》を買い候《そうろう》事《こと》、
山男、西根山《にしねやま》にて紫紺の根《ね》を掘《ほ》り取《と》り、夕景《ゆうけい》に至《いた》りて、ひそかに御城下《ごじょうか》(盛岡《もりおか》)へ立ち出《い》で候《そうろう》上《うえ》、材木町《ざいもくちょう》生薬商人《きぐすりしょうにん》近江屋源八《おうみやげんぱち》に一俵《いっぴょう》二十五|文《もん》にて売り候《そうろう》。それより山男、酒屋半之助方《さかやはんのすけかた》へ参《まい》り、五|合入程《ごういりほど》の瓢箪《ひょうたん》を差出《さしだ》し、この中に清酒《せいしゅ》一|斗《と》お入れなされたくと申《もう》し候。半之助方|小僧《こぞう》、身《み》ぶるえしつつ、酒一斗はとても入り兼《か》ね候と返答《へんとう》致《いた》し候|処《ところ》、山男、まずは入れなさるべく候と押《お》して申し候。半之助も顔色青ざめ委細《いさい》承知《しょうち》と早口に申し候。扨《さて》、小僧ますをとりて酒を入れ候に、酒は事《こと》もなく入り、遂《つい》に正味《しょうみ》一斗と相成《あいな》り候。山男|大《おおい》に笑《わら》いて二十五文を置《お》き、瓢箪をさげて立ち去《さ》り候|趣《おもむき》、材木町|総代《そうだい》より御届《おとど》け有之《これあり》候。」
これを読んだとき、工芸学校の先生は、机《つくえ》を叩《たた》いて斯《こ》うひとりごとを言いました。
「なるほど、紫紺《しこん》の職人《しょくにん》はみな死《し》んでしまった。生薬屋のおやじも死《し》んだと。そうしてみるとさしあたり、紫紺についての先輩《せんぱい》は、今では山男だけというわけだ。よしよし、一つ山男を呼《よ》び出して、聞いてみよう。」
そこで工芸《こうげい》学校の先生は、町の紫紺染研究会《しこんぞめけんきゅうかい》の人達《ひとたち》と相談《そうだん》して、九月六日の午后《ごご》六時から、内丸西洋軒《うちまるせいようけん》で山男の招待会《しょうたいかい》をすることにきめました。そこで工芸学校の先生は、山男へ宛《あ》てて上手《じょうず》な手紙を書きました。山男がその手紙さえ見れば、きっともう出掛《でか》けて来るようにうまく書いたのです。そして桃《もも》いろの封筒《ふうとう》へ入れて、岩手|郡《ぐん》西根山《にしねやま》、山男|殿《どの》と上書きをして、三|銭《せん》の切手をはって、スポンと郵便函《ゆうびんばこ》へ投《な》げ込《こ》みました。
「ふん。こうさえしてしまえば、あとはむこうへ届《とど》こうが届くまいが、郵便屋《ゆうびんや》の責任《せきにん》だ。」と先生はつぶやきました。
あっはっは。みなさん。とうとう九月六日になりました。夕方、紫紺染に熱心《ねっしん》な人たちが、みんなで二十四人、内丸西洋軒に集《あつ》まりました
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