した。
「ぢやさよなら。」女の子がふりかへつて二人に云ひました。
「さやなら。」ジヨバンニはまるで泣き出したいのをこらへて、怒つたやうにぶつきら棒に云ひました。
女の子はいかにもつらさうに眼を大きくして、も一度こつちをふりかへつてそれからあとはもうだまつて出て行つてしまひました。汽車の中はもう半分以上も空いてしまひ、俄かにがらんとしてさびしくなり、風がいつぱいに吹き込みました。
そして見てゐるとみんなはつつましく列を組んで、あの十字架の前の天の川のなぎさにひざまづいてゐました。そしてその見えない天の川の水をわたつて、ひとりの神々しい白いきものの人が手をのばしてこつちへ來るのを二人は見ました。けれどもそのときはもう硝子の呼子は鳴らされ汽車はうごきだし、と思ふうちに銀いろの霧が川下の方から、すうつと流れて來て、もうそつちは何も見えなくなりました。ただたくさんのくるみの木が葉をさんさんと光らしてその霧の中に立ち、黄金の圓光をもつた電氣栗鼠が、可愛い顏をその中からちらちらのぞかしてゐるだけでした。
そのとき、すうつと霧がはれかかりました。どこかへ行く街道らしい小さな電燈の一列についた通りがありました。それはしばらく線路に沿つて進んでゐました。
そして二人がそのあかしの前を通つて行くときは、その小さな豆いろの火はちやうど挨拶でもするやうにぽかつと消え、二人が過ぎて行くときまた點くのでした。
ふりかへつて見ると、さつきの十字架はすつかり小さくなつてしまひ、ほんたうにもう、そのまま胸にも吊されさうになり、さつきの女の子や青年たちがその前の白い渚にまだひざまづいてゐるのか、それともどこか方角もわからないその天上へ行つたのか、ぼんやりして見分けられませんでした。
ジヨバンニは、ああ、と深く息しました。
「カムパネルラ、また僕たち二人きりになつたねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもう、あのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか、百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だつてさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
「けれどもほんたうのさいはひは一體何だらう。」
ジヨバンニが云ひました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしつかりやらうねえ。」ジヨバンニが胸いつぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。
「あ、あすこ石炭袋だよ。そらの孔だよ。」カムパネルラが、少しそつちを避けるやうにしながら天の川のひととこを指さしました。
ジヨバンニはそつちを見て、まるでぎくつとしてしまひました。天の川の一ととこに大きなまつくらな孔が、どほんとあいてゐるのです。その底がどれほど深いか、その奧に何があるか、いくら眼をこすつてのぞいてもなんにも見えず、ただ眼がしんしんと痛むのでした。ジヨバンニが云ひました。
「僕、もうあんな大きな闇の中だつてこはくない、きつとみんなのほんたうのさいはひをさがしに行く、どこまでもどこまでも僕たち一緒に進んで行かう。」
「ああきつと行くよ。」
カムパネルラは俄かに窓の遠くに見えるきれいな野原を指さして叫びました。
「ああ、あすこの野原はなんてきれいだらう。みんな集つてるねえ。あすこがほんたうの天上なんだ。あつ、あすこにゐるのはぼくのお母さんだよ。」
ジヨバンニもそつちを見ましたけれども、そこはぼんやり白くけむつてゐるばかり、どうしてもカムパネルラが云つたやうに思はれませんでした。
何とも云へずさびしい氣がして、ぼんやりそつちを見てゐましたら、向うの河岸に二本の電信ばしらが丁度兩方から腕を組んだやうに赤い腕木をつらねて立つてゐました。
「カムパネルラ、僕たち一緒に行かうねえ。」ジヨバンニが斯う云ひながらふりかへつて見ましたら、そのいままでカムパネルラの坐つてゐた席に、もうカムパネルラの形は見えず黒いびろうどばかりひかつてゐました。
ジヨバンニはまるで鐵砲彈のやうに立ちあがりました。そして窓の外へからだを乘り出して、力いつぱいはげしく胸をうつて叫び、それからもう咽喉いつぱい泣きだしました。
もうそこらが一ぺんにまつくらになつたやうに思ひました。そのとき、
「おまへはいつたい何を泣いてゐるの。ちよつとこつちをごらん。」いままでたびたび聞えた、あのやさしいセロのやうな聲がジヨバンニのうしろから聞えました。
ジヨバンニは、はつと思つて涙をはらつてそつちをふり向きました。
さつきまでカムパネルラの坐つてゐた席に黒い大きな帽子をかぶつた青白い顏の痩せた大人が、やさしくわらつて大きな一册の本をもつてゐました。
「おまへのともだちがどこかへ行つたのだらう。あのひとはね、ほんたうにこんや遠くへ行つたのだ。おまへはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといつしよにまつすぐに行かうと云つたんです。」
「ああ、さうだ。みんながさう考へる。けれどもいつしよに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。
おまへがあふどんなひとでも、みんな何べんもおまへといつしよに苹果をたべたり汽車に乘つたりしたのだ。
だからやつぱりおまへはさつき考へたやうに、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しよに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまへはほんたうにカムパネルラといつまでもいつしよに行けるのだ。」
「ああぼくはきつとさうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでせう。」
「ああわたくしもそれをもとめてゐる。おまへはおまへの切符をしつかりもつておいで。そして一しんに勉強しなけあいけない。おまへは化學をならつたらう。水は酸素と水素からできてゐるといふことを知つてゐる。いまはだれだつてそれを疑やしない。實驗して見るとほんたうにさうなんだから。
けれども昔はそれを水銀と鹽でできてゐると云つたり、水銀と硫黄でできてゐると云つたりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももし、おまへがほんたうに勉強して、實驗でちやんとほんたうの考へと、うその考へとを分けてしまへば、その實驗の方法さへきまれば、もう信仰も化學と同じやうになる。けれども、ね、ちよつとこの本をごらん。いいかい。これは地理と歴史の辭典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ。紀元前二千二百年のころにみんなが考へてゐた地理と歴史といふものが書いてある。
だからこの頁一つが一册の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本當だ。さがすと證據もぞくぞくと出てゐる。けれどもそれが少しどうかなと斯う考へだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。
紀元前一千年。だいぶ地理も歴史も變つてるだらう。このときには斯うなのだ。變な顏してはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだつて考へだつて、天の川だつて汽車だつて歴史だつて、たださう感じてゐるだけなんだから、そらごらん、ぼくといつしよにすこしこころもちをしづかにしてごらん。いいか。」
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。
するといきなりジヨバンニは自分といふものがじぶんの考へといふものが、汽車やその學者や天の川やみんないつしよにぽかつと光つて、しいんとなくなつてぽかつとともつてまたなくなつて、そしてその一つがぽかつとともるとあらゆる廣い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなはり、すつと消えるともうがらんとしたただもうそれつきりになつてしまふのを見ました。
だんだんそれが早くなつて、まもなくすつかりもとのとほりになりました。
「さあいいか。だからおまへの實驗はこのきれぎれの考へのはじめから終りすべてにわたるやうでなければいけない。それがむづかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレアデスが見える。おまへはあのプレアデスの鎖を解かなければならない。」
そのときまつくらな地平線の向うから青じろいのろしがまるでひるまのやうにうちあげられ、汽車の中はすつかり明るくなりました。
そしてのろしは高くそらにかかつて光りつづけました。
「ああマジエランの星雲だ。さあもうきつと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんたうのほんたうの幸福をさがすぞ。」
ジヨバンニは唇を噛んで、そのいちばん幸福なそのひとのために、そのマジエランの星雲をのぞんで立ちました。
「さあ、切符をしつかり持つておいで。お前はもう夢の鐵道の中でなしに本當の世界の火やはげしい波の中を大股にまつすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたつた一つのほんたうのその切符を決しておまへはなくしてはいけない。」
あのセロのやうな聲がしたと思ふとジヨバンニは、あの天の川がもうまるで遠く遠くなつて風が吹き、自分はまつすぐに草の丘に立つてゐるのを見、また遠くからあのブルカニロ博士の足おとのしづかに近づいて來るのをききました。
「ありがたう。私は大へんいい實驗をした。私はこんなしづかな場所で、遠くから私の考へを人に傳へる實驗をしたいとさつき考へてゐた。お前の云つた言葉はみんな私の手帖にとつてある。さあ歸つておやすみ。お前は夢の中で決心したとほりまつすぐに進んで行くがいい。そしてこれから何でもいつでも私のところへ相談においでなさい。」
「僕きつとまつすぐに進みます。きつとほんたうの幸福を求めます。」
ジヨバンニは力強く云ひました。
「ああではさよなら。これはさつきの切符です。」
博士は小さく折つた緑いろの紙を、ジヨバンニのポケツトに入れました。
そしてもうそのかたちは天氣輪の柱の向うに見えなくなつてゐました。
ジヨバンニはまつすぐに走つて丘をおりました。
そしてポケツトが大へん重くカチカチ鳴るのに氣がつきました。林の中でとまつてそれをしらべて見ましたら、あの緑いろのさつき夢の中でみたあやしい天の切符の中に、大きな二枚の金貨が包んでありました。
「博士ありがたう、おつかさん。すぐ乳をもつて行きますよ。」
ジヨバンニは叫んでまた走りはじめました。何かいろいろのものが一ぺんにジヨバンニの胸に集つて何とも云へずかなしいやうな親しいやうな氣がするのでした。
琴の星がずうつと西の方へ移つてそしてまた夢のやうに足をのばしてゐました。
底本:「銀河鉄道の夜」岩波文庫、岩波書店
1951(昭和26)年10月25日初版発行
1962(昭和37)年3月30日第13刷発行
底本の親本:「宮澤賢治全集 第三卷」十字屋書店
入力:高柳典子
校正:土屋隆
2006年9月17日作成
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