ありません。何せよほど熟練な水夫たちが漕いで、すばやく船からはなれてゐましたから。」
 そこから小さな嘆息やいのりの聲が聞え、ジヨバンニもカムパネルラもいままで忘れてゐたいろいろのことをぼんやり思ひ出して眼が熱くなりました。
(ああ、その大きな海はパシフイツクといふのではなかつたらうか。
 その氷山の流れる北のはての海で、小さな船に乘つて、風や凍りつく潮水や、烈しい寒さとたたかつて、たれかが一生けんめいはたらいてゐる。ぼくはそのひとにほんたうに氣の毒で、そしてすまないやうな氣がする。ぼくはそのひとのさいはひのためにいつたいどうしたらいいのだらう。)
 ジヨバンニは首を垂れて、すつかりふさぎ込んでしまひました。
「なにがしあはせかわからないです。ほんたうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら、峠の上りも下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」
 燈臺守がなぐさめてゐました。
「ああさうです。ただいちばんのさいはひに至るためにいろいろのかなしみもみんな、おぼしめしです。」
 青年が祈るやうにさう答へました。
 そしてあの姉弟はもうつかれてめいめいにぐつたり席によりかかつて睡つてゐました。さつきのあのはだしだつた足にはいつか白い柔らかな靴をはいてゐたのです。
 ごとごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。向うの方の窓を見ると、野原はまるで幻燈のやうでした。百も千もの大小さまざまの三角標、その大きなものの上には赤い點々をうつた測量旗も見え、野原のはてはそれがいちめん、たくさんたくさん集つてぼうつと青白い霧のやう、そこからか、またはもつと向うからか、ときどきさまざまの形のぼんやりした狼煙のやうなものが、かはるがはるきれいな桔梗いろのそらにうちあげられるのでした。じつにそのすきとほつた綺麗な風は、ばらの匂でいつぱいでした。
「いかがですか。かういふ苹果はおはじめてでせう。」
 向うの席の燈臺看守が、いつか黄金と紅でうつくしくいろどられた大きな苹果を落さないやうに、兩手で膝の上にかかえてゐました。
「おや、どつから來たのですか。立派ですね。ここらではこんな苹果ができるのですか。」青年はほんたうにびつくりしたらしく、燈臺看守の兩手にかかえられた一もりの苹果を、眼を細くしたり首をまげたりしながら、われを忘れてながめてゐました。
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