ませんでした」その人はすぐ奥《おく》へ行って一本の牛乳瓶《ぎゅうにゅうびん》をもって来てジョバンニに渡《わた》しながら、また言《い》いました。
「ほんとうに済《す》みませんでした。今日はひるすぎ、うっかりしてこうしの柵《さく》をあけておいたもんですから、大将《たいしょう》さっそく親牛《おやうし》のところへ行って半分《はんぶん》ばかりのんでしまいましてね……」その人はわらいました。
「そうですか。ではいただいて行きます」
「ええ、どうも済《す》みませんでした」
「いいえ」
 ジョバンニはまだ熱《あつ》い乳《ちち》の瓶《びん》を両方《りょうほう》のてのひらで包《つつ》むようにもって牧場《ぼくじょう》の柵《さく》を出ました。
 そしてしばらく木のある町を通って大通りへ出てまたしばらく行きますとみちは十文字になって、その右手の方、通りのはずれにさっきカムパネルラたちのあかりを流《なが》しに行った川へかかった大きな橋《はし》のやぐらが夜のそらにぼんやり立っていました。
 ところがその十字になった町かどや店の前に女たちが七、八人ぐらいずつ集《あつ》まって橋《はし》の方を見ながら何かひそひそ談《はな》しているのです。それから橋《はし》の上にもいろいろなあかりがいっぱいなのでした。
 ジョバンニはなぜかさあっと胸《むね》が冷《つめ》たくなったように思いました。そしていきなり近くの人たちへ、
「何かあったんですか」と叫《さけ》ぶようにききました。
「こどもが水へ落《お》ちたんですよ」一人《ひとり》が言《い》いますと、その人たちは一斉《いっせい》にジョバンニの方を見ました。ジョバンニはまるで夢中《むちゅう》で橋《はし》の方へ走りました。橋《はし》の上は人でいっぱいで河《かわ》が見えませんでした。白い服《ふく》を着《き》た巡査《じゅんさ》も出ていました。
 ジョバンニは橋《はし》の袂《たもと》から飛《と》ぶように下の広い河原《かわら》へおりました。
 その河原《かわら》の水ぎわに沿《そ》ってたくさんのあかりがせわしくのぼったり下ったりしていました。向《む》こう岸《ぎし》の暗《くら》いどてにも火が七つ八つうごいていました。そのまん中をもう烏瓜《からすうり》のあかりもない川が、わずかに音をたてて灰《はい》いろにしずかに流《なが》れていたのでした。
 河原《かわら》のいちばん下流《かりゅう》の方へ洲《す》のようになって出たところに人の集《あつ》まりがくっきりまっ黒に立っていました。ジョバンニはどんどんそっちへ走りました。するとジョバンニはいきなりさっきカムパネルラといっしょだったマルソに会《あ》いました。マルソがジョバンニに走り寄《よ》って言《い》いました。
「ジョバンニ、カムパネルラが川へはいったよ」
「どうして、いつ」
「ザネリがね、舟《ふね》の上から烏《からす》うりのあかりを水の流《なが》れる方へ押《お》してやろうとしたんだ。そのとき舟《ふね》がゆれたもんだから水へ落《お》っこったろう。するとカムパネルラがすぐ飛《と》びこんだんだ。そしてザネリを舟《ふね》の方へ押《お》してよこした。ザネリはカトウにつかまった。けれどもあとカムパネルラが見えないんだ」
「みんなさがしてるんだろう」
「ああ、すぐみんな来た。カムパネルラのお父さんも来た。けれども見つからないんだ。ザネリはうちへ連《つ》れられてった」
 ジョバンニはみんなのいるそっちの方へ行きました。そこに学生たちや町の人たちに囲《かこ》まれて青じろいとがったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服《ふく》を着《き》てまっすぐに立って左手に時計《とけい》を持《も》ってじっと見つめていたのです。
 みんなもじっと河《かわ》を見ていました。誰《だれ》も一言《ひとこと》も物《もの》を言《い》う人もありませんでした。ジョバンニはわくわくわくわく足がふるえました。魚をとるときのアセチレンランプがたくさんせわしく行ったり来たりして、黒い川の水はちらちら小さな波《なみ》をたてて流《なが》れているのが見えるのでした。
 下流《かりゅう》の方の川はばいっぱい銀河《ぎんが》が巨《おお》きく写《うつ》って、まるで水のないそのままのそらのように見えました。
 ジョバンニは、そのカムパネルラはもうあの銀河《ぎんが》のはずれにしかいないというような気がしてしかたなかったのです。
 けれどもみんなはまだ、どこかの波《なみ》の間から、
「ぼくずいぶん泳《およ》いだぞ」と言いながらカムパネルラが出て来るか、あるいはカムパネルラがどこかの人の知らない洲《す》にでも着《つ》いて立っていて誰《だれ》かの来るのを待《ま》っているかというような気がしてしかたないらしいのでした。けれどもにわかにカムパネルラのお父さんがきっぱり言《い》いました。

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