》はもうありません。苹果《りんご》だってお菓子《かし》だって、かすが少しもありませんから、みんなそのひとそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになって毛あなからちらけてしまうのです」
 にわかに男の子がばっちり眼《め》をあいて言《い》いました。
「ああぼくいまお母《っか》さんの夢《ゆめ》をみていたよ。お母《っか》さんがね、立派《りっぱ》な戸棚《とだな》や本のあるとこにいてね、ぼくの方を見て手をだしてにこにこにこにこわらったよ。ぼく、おっかさん。りんごをひろってきてあげましょうか、と言《い》ったら眼《め》がさめちゃった。ああここ、さっきの汽車のなかだねえ」
「その苹果《りんご》がそこにあります。このおじさんにいただいたのですよ」青年が言《い》いました。
「ありがとうおじさん。おや、かおるねえさんまだねてるねえ、ぼくおこしてやろう。ねえさん。ごらん、りんごをもらったよ。おきてごらん」
 姉《あね》はわらって眼《め》をさまし、まぶしそうに両手《りょうて》を眼《め》にあてて、それから苹果《りんご》を見ました。
 男の子はまるでパイをたべるように、もうそれをたべていました。またせっかくむいたそのきれいな皮《かわ》も、くるくるコルク抜《ぬ》きのような形になって床《ゆか》へ落《お》ちるまでの間にはすうっと、灰《はい》いろに光って蒸発《じょうはつ》してしまうのでした。
 二人《ふたり》はりんごをたいせつにポケットにしまいました。
 川下の向《む》こう岸《ぎし》に青く茂《しげ》った大きな林が見え、その枝《えだ》には熟《じゅく》してまっ赤に光るまるい実《み》がいっぱい、その林のまん中に高い高い三角標《さんかくひょう》が立って、森の中からはオーケストラベルやジロフォンにまじってなんとも言《い》えずきれいな音《ね》いろが、とけるように浸《し》みるように風につれて流《なが》れて来るのでした。
 青年はぞくっとしてからだをふるうようにしました。
 だまってその譜《ふ》を聞いていると、そこらにいちめん黄いろや、うすい緑《みどり》の明るい野原《のはら》か敷物《しきもの》かがひろがり、またまっ白な蝋《ろう》のような露《つゆ》が太陽《たいよう》の面《めん》をかすめて行くように思われました。
「まあ、あの烏《からす》」カムパネルラのとなりの、かおると呼《よ》ばれた女の子が叫《さけ》びました。
「か
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