さいました。
冬が近くて、天山[※5]はもうまっ白になり、桑《くわ》の葉《は》が黄いろに枯《か》れてカサカサ落ちました頃《ころ》、ある日のこと、童子が俄かに帰っておいでです。母さまが窓《まど》から目敏《めざと》く見付けて出て行かれました。
須利耶さまは知らないふりで写経を続けておいてです。
(まあお前は今ごろどうしたのです。)
(私、もうお母さんと一緒《いっしょ》に働《はた》らこうと思います。勉強《べんきょう》している暇《ひま》はないんです。)
母さまは、須利耶さまのほうに気兼《きが》ねしながら申されました。
(お前はまたそんなおとなのようなことを云って、仕方《しかた》ないではありませんか。早く帰って勉強して、立派になって、みんなの為《ため》にならないとなりません。)
(だっておっかさん。おっかさんの手はそんなにガサガサしているのでしょう。それだのに私の手はこんななんでしょう。)
(そんなことをお前が云わなくてもいいのです。誰《だれ》でも年を老《と》れば手は荒《あ》れます。そんなことより、早く帰って勉強をなさい。お前の立派になることばかり私には楽《たのし》みなんだから。お父さんがお聞きになると叱られますよ。ね。さあ、おいで。)と斯う申されます。
童子はしょんぼり庭から出られました。それでも、また立ち停《どま》ってしまわれましたので、母さまも出て行かれてもっと向うまでお連れになりました。そこは沼地《ぬまち》でございました。母さまは戻《もど》ろうとしてまた(さあ、おいで早く。)と仰っしゃったのでしたが童子はやっぱり停《と》まったまま、家の方をぼんやり見ておられますので、母さまも仕方なくまた振《ふ》り返《かえ》って、蘆《あし》を一本|抜《ぬ》いて小さな笛《ふえ》をつくり、それをお持たせになりました。
童子はやっと歩き出されました。そして、遥《はる》かに冷《つめ》たい縞《しま》をつくる雲のこちらに、蘆がそよいで、やがて童子の姿が、小さく小さくなってしまわれました。俄かに空を羽音がして、雁の一列が通りました時、須利耶さまは窓からそれを見て、思わずどきっとなされました。
そうして冬に入りましたのでございます。その厳《きび》しい冬が過ぎますと、まず楊の芽《め》が温和《おとな》しく光り、沙漠には砂糖水《さとうみず》のような陽炎《かげろう》が徘徊《はいかい》いたしまする。
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