烏の北斗七星
宮沢賢治
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)判《わか》らない
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)義勇|艦隊《かんたい》
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つめたいいじの悪い雲が、地べたにすれすれに垂れましたので、野はらは雪のあかりだか、日のあかりだか判《わか》らないようになりました。
烏の義勇|艦隊《かんたい》は、その雲に圧《お》しつけられて、しかたなくちょっとの間、亜鉛《とたん》の板をひろげたような雪の田圃《たんぼ》のうえに横にならんで仮泊《かはく》ということをやりました。
どの艦《ふね》もすこしも動きません。
まっ黒くなめらかな烏の大尉《たいい》、若い艦隊長もしゃんと立ったままうごきません。
からすの大監督《だいかんとく》はなおさらうごきもゆらぎもいたしません。からすの大監督は、もうずいぶんの年老《としよ》りです。眼《め》が灰いろになってしまっていますし、啼《な》くとまるで悪い人形のようにギイギイ云《い》います。
それですから、烏の年齢《とし》を見分ける法を知らない一人の子供が、いつか斯《こ》う云ったのでした。
「おい、この町には咽喉《のど》のこわれた烏が二|疋《ひき》いるんだよ。おい。」
これはたしかに間違《まちが》いで、一疋しか居《お》りませんでしたし、それも決してのどが壊《こわ》れたのではなく、あんまり永い間、空で号令したために、すっかり声が錆《さ》びたのです。それですから烏の義勇艦隊は、その声をあらゆる音の中で一等だと思っていました。
雪のうえに、仮泊ということをやっている烏の艦隊は、石ころのようです。胡麻《ごま》つぶのようです。また望遠鏡でよくみると、大きなのや小さなのがあって馬鈴薯《ばれいしょ》のようです。
しかしだんだん夕方になりました。
雲がやっと少し上の方にのぼりましたので、とにかく烏の飛ぶくらいのすき間ができました。
そこで大監督が息を切らして号令を掛《か》けます。
「演習はじめいおいっ、出発」
艦隊長烏の大尉が、まっさきにぱっと雪を叩《たた》きつけて飛びあがりました。烏の大尉の部下が十八|隻《せき》、順々に飛びあがって大尉に続いてきちんと間隔《かんかく》をとって進みました。
それから戦闘艦隊が三十二隻、次々に出発し、その次に大監督の大艦長が厳《おごそ》かに舞《ま》いあがりました。
そのときはもうまっ先の烏の大尉は、四へんほど空で螺旋《うず》を巻いてしまって雲の鼻っ端《ぱし》まで行って、そこからこんどはまっ直《す》ぐに向うの杜《もり》に進むところでした。
二十九隻の巡洋艦《じゅんようかん》、二十五隻の砲艦《ほうかん》が、だんだんだんだん飛びあがりました。おしまいの二隻は、いっしょに出発しました。ここらがどうも烏の軍隊の不規律なところです。
烏の大尉は、杜のすぐ近くまで行って、左に曲がりました。
そのとき烏の大監督が、「大砲《たいほう》撃てっ。」と号令しました。
艦隊は一斉《いっせい》に、があがあがあがあ、大砲をうちました。
大砲をうつとき、片脚《かたあし》をぷんとうしろへ挙げる艦《ふね》は、この前のニダナトラの戦役《せんえき》での負傷兵で、音がまだ脚の神経にひびくのです。
さて、空を大きく四へん廻《まわ》ったとき、大監督が、
「分れっ、解散」と云いながら、列をはなれて杉の木の大監督官舎におりました。みんな列をほごしてじぶんの営舎に帰りました。
烏の大尉は、けれども、すぐに自分の営舎に帰らないで、ひとり、西のほうのさいかちの木に行きました。
雲はうす黒く、ただ西の山のうえだけ濁《にご》った水色の天の淵《ふち》がのぞいて底光りしています。そこで烏仲間でマシリイと呼ぶ銀の一つ星がひらめきはじめました。
烏の大尉は、矢のようにさいかちの枝《えだ》に下《お》りました。その枝に、さっきからじっと停《とま》って、ものを案じている烏があります。それはいちばん声のいい砲艦で、烏の大尉の許嫁《いいなずけ》でした。
「があがあ、遅《おそ》くなって失敬。今日の演習で疲《つか》れないかい。」
「かあお、ずいぶんお待ちしたわ。いっこうつかれなくてよ。」
「そうか。それは結構だ。しかしおれはこんどしばらくおまえと別れなければなるまいよ。」
「あら、どうして、まあ大へんだわ。」
「戦闘艦隊長のはなしでは、おれはあした山烏を追いに行くのだそうだ。」
「まあ、山烏は強いのでしょう。」
「うん、眼玉《めだま》が出しゃばって、嘴《くちばし》が細くて、ちょっと見掛けは偉《えら》そうだよ。しかし訳ないよ。」
「ほんとう。」
「大丈夫《だいじょうぶ》さ。しかしもちろん戦争のことだから、どういう張合でどんなことがあるかもわからない。そのときはおまえはね、おれとの約束《やくそく》はすっかり消えたんだから、外《ほか》へ嫁《い》ってくれ。」
「あら、どうしましょう。まあ、大へんだわ。あんまりひどいわ、あんまりひどいわ。それではあたし、あんまりひどいわ、かあお、かあお、かあお、かあお」
「泣くな、みっともない。そら、たれか来た。」
烏の大尉の部下、烏の兵曹長《へいそうちょう》が急いでやってきて、首をちょっと横にかしげて礼をして云いました。
「があ、艦長殿、点呼の時間でございます。一同整列して居《お》ります。」
「よろしい。本艦は即刻《そっこく》帰隊する。おまえは先に帰ってよろしい。」
「承知いたしました。」兵曹長は飛んで行きます。
「さあ、泣くな。あした、も一度列の中で会えるだろう。
丈夫でいるんだぞ、おい、お前ももう点呼だろう、すぐ帰らなくてはいかん。手を出せ。」
二疋はしっかり手を握《にぎ》りました。大尉はそれから枝をけって、急いでじぶんの隊に帰りました。娘の烏は、もう枝に凍《こお》り着いたように、じっとして動きません。
夜になりました。
それから夜中になりました。
雲がすっかり消えて、新らしく灼《や》かれた鋼《はがね》の空に、つめたいつめたい光がみなぎり、小さな星がいくつか連合《れんごう》して爆発《ばくはつ》をやり、水車の心棒がキイキイ云います。
とうとう薄《うす》い鋼の空に、ピチリと裂罅《ひび》がはいって、まっ二つに開き、その裂《さ》け目から、あやしい長い腕《うで》がたくさんぶら下って、烏を握《つか》んで空の天井《てんじょう》の向う側へ持って行こうとします。烏の義勇艦隊はもう総掛りです。みんな急いで黒い股引《ももひき》をはいて一生けん命宙をかけめぐります。兄貴の烏も弟をかばう暇《ひま》がなく、恋人《こいびと》同志もたびたびひどくぶっつかり合います。
いや、ちがいました。
そうじゃありません。
月が出たのです。青いひしげた二十日の月が、東の山から泣いて登ってきたのです。そこで烏の軍隊はもうすっかり安心してしまいました。
たちまち杜はしずかになって、ただおびえて脚をふみはずした若い水兵が、びっくりして眼をさまして、があと一発、ねぼけ声の大砲を撃つだけでした。
ところが烏の大尉は、眼が冴《さ》えて眠《ねむ》れませんでした。
「おれはあした戦死するのだ。」大尉は呟《つぶ》やきながら、許嫁《いいなずけ》のいる杜の方にあたまを曲げました。
その昆布《こんぶ》のような黒いなめらかな梢《こずえ》の中では、あの若い声のいい砲艦が、次から次といろいろな夢《ゆめ》を見ているのでした。
烏の大尉とただ二人、ばたばた羽をならし、たびたび顔を見合せながら、青黒い夜の空を、どこまでもどこまでものぼって行きました。もうマジエル様と呼ぶ烏の北斗七星《ほくとしちせい》が、大きく近くなって、その一つの星のなかに生えている青じろい苹果《りんご》の木さえ、ありありと見えるころ、どうしたわけか二人とも、急にはねが石のようにこわばって、まっさかさまに落ちかかりました。マジエル様と叫《さけ》びながら愕《おど》ろいて眼をさましますと、ほんとうにからだが枝から落ちかかっています。急いではねをひろげ姿勢を直し、大尉の居る方を見ましたが、またいつかうとうとしますと、こんどは山烏が鼻眼鏡《はなめがね》などをかけてふたりの前にやって来て、大尉に握手《あくしゅ》しようとします。大尉が、いかんいかん、と云って手をふりますと、山烏はピカピカする拳銃《ピストル》を出していきなりずどんと大尉を射殺《いころ》し、大尉はなめらかな黒い胸を張って倒《たお》れかかります。マジエル様と叫びながらまた愕いて眼をさますというあんばいでした。
烏の大尉はこちらで、その姿勢を直すはねの音から、そのマジエルを祈《いの》る声まですっかり聴《き》いて居りました。
じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマジエルの星を仰《あお》ぎながら、ああ、あしたの戦《たたかい》でわたくしが勝つことがいいのか、山烏がかつのがいいのか、それはわたくしにわかりません、ただあなたのお考《かんがえ》のとおりです、わたくしはわたくしにきまったように力いっぱいたたかいます、みんなみんなあなたのお考えのとおりですとしずかに祈って居りました。そして東のそらには早くも少しの銀の光が湧《わ》いたのです。
ふと遠い冷たい北の方で、なにか鍵《かぎ》でも触《ふ》れあったようなかすかな声がしました。烏《からす》の大尉は夜間双眼鏡《ナイトグラス》を手早く取って、きっとそっちを見ました。星あかりのこちらのぼんやり白い峠《とうげ》の上に、一本の栗《くり》の木が見えました。その梢にとまって空を見あげているものは、たしかに敵の山烏です。大尉の胸は勇ましく躍《おど》りました。
「があ、非常|召集《しょうしゅう》、があ、非常召集」
大尉の部下はたちまち枝をけたてて飛びあがり大尉のまわりをかけめぐります。
「突貫《とっかん》。」烏の大尉は先登《せんとう》になってまっしぐらに北へ進みました。
もう東の空はあたらしく研《と》いだ鋼《はがね》のような白光《しろびかり》です。
山烏はあわてて枝をけ立てました。そして大きくはねをひろげて北の方へ遁《に》げ出そうとしましたが、もうそのときは駆逐艦《くちくかん》たちはまわりをすっかり囲んでいました。
「があ、があ、があ、があ、があ」大砲の音は耳もつんぼになりそうです。山烏は仕方なく足をぐらぐらしながら上の方へ飛びあがりました。大尉はたちまちそれに追い付いて、そのまっくろな頭に鋭《するど》く一突《ひとつ》き食らわせました。山烏はよろよろっとなって地面に落ちかかりました。そこを兵曹長が横からもう一突きやりました。山烏は灰いろのまぶたをとじ、あけ方の峠の雪の上につめたく横《よこた》わりました。
「があ、兵曹長。その死骸《しがい》を営舎までもって帰るように。があ。引き揚げっ。」
「かしこまりました。」強い兵曹長はその死骸を提《さ》げ、烏の大尉はじぶんの杜《もり》の方に飛びはじめ十八隻はしたがいました。
杜に帰って烏の駆逐艦は、みなほうほう白い息をはきました。
「けがは無いか。誰《たれ》かけがしたものは無いか。」烏の大尉はみんなをいたわってあるきました。
夜がすっかり明けました。
桃《もも》の果汁《しる》のような陽《ひ》の光は、まず山の雪にいっぱいに注ぎ、それからだんだん下に流れて、ついにはそこらいちめん、雪のなかに白百合《しろゆり》の花を咲かせました。
ぎらぎらの太陽が、かなしいくらいひかって、東の雪の丘《おか》の上に懸《かか》りました。
「観兵式、用意っ、集れい。」大監督が叫びました。
「観兵式、用意っ、集れい。」各艦隊長が叫びました。
みんなすっかり雪のたんぼにならびました。
烏の大尉は列からはなれて、ぴかぴかする雪の上を、足をすくすく延ばしてまっすぐに走って大監督の前に行きました。
「報告、きょうあけがた、セピラの峠の上に敵艦の碇泊《ていはく》を認めましたので、本艦隊は直ちに出動、撃沈《げきちん》いたしました。わが軍死者なし。報告終りっ。」
駆逐艦隊はもうあんまりうれしくて、熱い涙《なみだ》をぼろぼろ雪の上
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