兵曹長《へいさうちやう》が急いでやつてきて、首をちよつと横にかしげて礼をして云ひました。
「があ、艦長殿、点呼の時間でございます。一同整列して居《を》ります。」
「よろしい。本艦は即刻帰隊する。おまへは先に帰つてよろしい。」
「承知いたしました。」兵曹長は飛んで行きます。
「さあ、泣くな。あした、も一度列の中で会へるだらう。
 丈夫でゐるんだぞ。おい、お前ももう点呼だらう、すぐ帰らなくてはいかん。手を出せ。」
 二|疋《ひき》はしつかり手を握りました。大尉はそれから枝をけつて、急いでじぶんの隊に帰りました。娘の烏は、もう枝に凍り着いたやうに、じつとして動きません。
 夜になりました。
 それから夜中になりました。
 雲がすつかり消えて、新らしく灼《や》かれた鋼の空に、つめたいつめたい光がみなぎり、小さな星がいくつか聯合《れんがふ》して爆発をやり、水車の心棒がキイキイ云ひます。
 たうとう薄い鋼の空に、ピチリと裂罅《ひび》がはひつて、まつ二つに開き、その裂け目から、あやしい長い腕がたくさんぶら下つて、烏《からす》を握《つか》んで空の天井の向ふ側へ持つて行かうとします。烏の義勇艦隊はもう総掛りです。みんな急いで黒い股引《ももひき》をはいて一生けん命宙をかけめぐります。兄貴の烏も弟をかばふ暇がなく、恋人同志もたびたびひどくぶつつかり合ひます。
 いや、ちがひました。
 さうぢやありません。
 月が出たのです。青いひしげた二十日の月が、東の山から泣いて登つてきたのです。そこで烏の軍隊はもうすつかり安心してしまひました。
 たちまち杜《もり》はしづかになつて、たゞおびえて脚をふみはづした若い水兵が、びつくりして眼をさまして、があと一発、ねぼけ声の大砲を撃つだけでした。
 ところが烏の大尉は、眼が冴《さ》えて眠れませんでした。
「おれはあした戦死するのだ。」大尉は呟《つぶ》やきながら、許嫁《いひなづけ》のゐる杜の方にあたまを曲げました。
 その昆布《こんぶ》のやうな黒いなめらかな梢《こずゑ》の中では、あの若い声のいゝ砲艦が、次から次といろいろな夢を見てゐるのでした。
 烏の大尉とたゞ二人、ばたばた羽をならし、たびたび顔を見合せながら、青黒い夜の空を、どこまでもどこまでものぼつて行きました。もうマヂエル様と呼ぶ烏の北斗七星が、大きく近くなつて、その一つの星のなかに生えてゐる青じろい苹果《りんご》の木さへ、ありありと見えるころ、どうしたわけか二人とも、急にはねが石のやうにこはばつて、まつさかさまに落ちかゝりました。マヂエル様と叫びながら愕《おど》ろいて眼をさましますと、ほんたうにからだが枝から落ちかゝつてゐます。急いではねをひろげ姿勢を直し、大尉の居る方を見ましたが、またいつかうとうとしますと、こんどは山烏が鼻眼鏡《はなめがね》などをかけてふたりの前にやつて来て、大尉に握手しようとします。大尉が、いかんいかん、と云つて手をふりますと、山烏はピカピカする拳銃《ピストル》を出していきなりずどんと大尉を射殺《いころ》し、大尉はなめらかな黒い胸を張つて倒れかゝります。マヂエル様と叫びながらまた愕いて眼をさますといふあんばいでした。
 烏の大尉はこちらで、その姿勢を直すはねの音から、そらのマヂエルを祈る声まですつかり聴いて居りました。
 じぶんもまたためいきをついて、そのうつくしい七つのマヂエルの星を仰ぎながら、あゝ、あしたの戦《たたかひ》でわたくしが勝つことがいゝのか、山烏がかつのがいゝのかそれはわたくしにわかりません、たゞあなたのお考のとほりです、わたくしはわたくしにきまつたやうに力いつぱいたゝかひます、みんなみんなあなたのお考へのとほりですとしづかに祈つて居りました。そして東のそらには早くも少しの銀の光が湧《わ》いたのです。
 ふと遠い冷たい北の方で、なにか鍵《かぎ》でも触れあつたやうなかすかな声がしました。烏の大尉は夜間双眼鏡《ナイトグラス》を手早く取つて、きつとそつちを見ました。星あかりのこちらのぼんやり白い峠の上に、一本の栗《くり》の木が見えました。その梢《こずゑ》にとまつて空を見あげてゐるものは、たしかに敵の山烏です。大尉の胸は勇ましく躍りました。
「があ、非常召集、があ、非常召集」
 大尉の部下はたちまち枝をけたてて飛びあがり大尉のまはりをかけめぐります。
「突貫。」烏の大尉は先登になつてまつしぐらに北へ進みました。
 もう東の空はあたらしく研いだ鋼のやうな白光です。
 山烏はあわてて枝をけ立てました。そして大きくはねをひろげて北の方へ遁《に》げ出さうとしましたが、もうそのときは駆逐艦たちはまはりをすつかり囲んでゐました。
「があ、があ、があ、があ、があ」大砲の音は耳もつんぼになりさうです。山烏は仕方なく足をぐらぐらしながら上の方へ飛び
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