った。考へて又哂った。
 その男はもう見えなかった。
 その時百姓のおかみさんが小屋の隅《すみ》の幅二尺ばかりの白木の扉《と》を指さして
「どうか婆《ば》にも一寸《ちょっと》遭っておくなさい。」と云った。私はさっきからその扉は外へ出る為《ため》のだと思ってゐたのだ。もっとも時々頭の底でははあ騒動のときのかくれ場所だななどと考へてはゐた。けれども戸があいた。そして黒いゴリゴリのマントらしいものを着てまっ白に光った髪のひどく陰気なばあさんが黙って出て来て黙って座った。そして不思議さうにしげしげ私の顔を見つめた。
 私はふっと自分の服装を見た。たしかに茶いろのポケットの沢山ついた上着を着て長靴《ながぐつ》をはいてゐる。そこで私は又私の役目を思ひ出した。そして又横目でそっと作物の発育の工合《ぐあひ》を眺《なが》めた。一エーカー五百キログラム、いやもっとある、などと考へた。人がうろうろしてゐた。せいの高い顔の滑らかに黄いろな男がゐた。あれは支那《しな》人にちがひないと思った。
 よく見るとたしかに髪を捲いてゐた。その男は大股《おほまた》に右手に入った。それから小さな親切さうな青いきものの男がどうしたわけか片あしにリボンのやうにはんけちを結んでゐた。そして両あしをきちんと集めて少しかゞむやうにしてしばらくじっとしてゐた。私はたしかに祈りだと思った。
 私はもういつか小屋を出てゐた。全く小屋はいつかなくなってゐた。うすあかりが青くけむり東のそらには日本の春の夕方のやうに鼠《ねずみ》色の重い雲が一杯に重なってゐた。そこに紫苑《しをん》の花びらが羽虫のやうにむらがり飛びかすかに光って渦を巻いた。
 みんなはだれもパッと顔をほてらせてあつまり手を斜に東の空へのばして
「ホッホッホッホッ。」と叫んで飛びあがった。私は花椰菜《はなやさい》の中ですっぱだかになってゐた。私のからだは貝殻よりも白く光ってゐた。私は感激してみんなのところへ走って行った。
 そしてはねあがって手をのばしてみんなと一緒に
「ホッホッホッホッ」と叫んだ。
 たしかに紫苑《しをん》のはなびらは生きてゐた。
 みんなはだんだん東の方へうつって行った。
 それから私は黒い針葉樹の列をくぐって外に出た。
 白崎特務|曹長《さうちゃう》がそこに待ってゐた。そして二人はでこぼこの丘の斜面のやうなところをあるいてゐた。柳の花がきんき
前へ 次へ
全3ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング