が帰って炉《ろ》ばたに居《い》たからぼくは思い切って父にもう一|度《ど》学校の事情《じじょう》を云った。
 すると父が母もまだ伊勢詣《いせまい》りさえしないのだし祖母《そぼ》だって伊勢詣り一ぺんとここらの観音巡《かんのんめぐ》り一ぺんしただけこの十何年|死《し》ぬまでに善光寺《ぜんこうじ》へお詣りしたいとそればかり云っているのだ、ことに去年《きょねん》からのここら全体《ぜんたい》の旱魃《かんばつ》でいま外へ遊《あそ》んで歩くなんてことはとなりやみんなへ悪《わる》くてどうもいけないということを云った。
 僕はいくら下を向いていても炉のなかへ涙《なみだ》がこぼれて仕方《しかた》なかった。それでもしばらくたってからそんなら僕はもう行かなくてもいいからと云《い》った。ぼくはみんなが修学旅行《しゅうがくりょこう》へ発《た》つ間休みだといって学校は欠席《けっせき》しようと思ったのだ。すると父がまたしばらくだまっていたがとにかくもいちど相談《そうだん》するからと云ってあとはいろいろ稲《いね》の種類《しゅるい》のことだのふだんきかないようなことまでぼくにきいた。ぼくはけれども気持《きも》ちがさっぱりした。


五月十三日 今日学校から帰って田に行ってみたら母だけ一人|居《い》て何だか嬉《うれ》しそうにして田の畦《あぜ》を切っていた。
 何かあったのかと思ってきいたら、今にお父さんから聞けといった。ぼくはきっと修学旅行のことだと思った。
 僕《ぼく》もそこで母が家へ帰るまで田打《たう》ちをして助《たす》けた。
 けれども父はまだ帰って来ない。


五月十四日、昨夜《さくや》父が晩《おそ》く帰って来て、僕を修学旅行にやると云った。母も嬉しそうだったし祖母もいろいろ向《むこ》うのことを聞いたことを云った。祖母の云うのはみんな北海道|開拓当時《かいたくとうじ》のことらしくて熊《くま》だのアイヌだの南瓜《かぼちゃ》の飯《めし》や玉蜀黍《とうもろこし》の団子《だんご》やいまとはよほどちがうだろうと思われた。今日学校へ行って武田《たけだ》先生へ行くと云《い》って届《とど》けたら先生も大へんよろこんだ。もうあと二人足りないけれども定員《ていいん》を超《こ》えたことにして県《けん》へは申請書《しんせいしょ》を出したそうだ。ぼくはもう行ってきっとすっかり見て来る、そしてみんなへ詳《くわ》しく話すのだ。
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一九二五、五、一八、
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汽車は闇《やみ》のなかをどんどん北へ走って行く。盛岡《もりおか》の上のそらがまだぼうっと明るく濁《にご》って見える。黒い藪《やぶ》だの松林《まつばやし》だのぐんぐん窓《まど》を通って行く。北上《きたかみ》山地の上のへりが時々かすかに見える。
さあいよいよぼくらも岩手県《いわてけん》をはなれるのだ。
うちではみんなもう寝《ね》ただろう。祖母さんはぼくにお守《まも》りを借《か》してくれた。さよなら、北上山地、北上川、岩手県の夜の風、今武田先生が廻《まわ》ってみんなの席《せき》の工合《ぐあい》や何かを見て行った。
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一九二六[#「六」に「(ママ)」の注記]、五、一九、〔以下空白〕


五月十九日

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      *

いま汽車は青森県の海岸《かいがん》を走っている。海は針《はり》をたくさん並《なら》べたように光っているし木のいっぱい生《は》えた三角な島もある。いま見ているこの白い海が太平洋《たいへいよう》なのだ。その向《むこ》うにアメリカがほんとうにあるのだ。ぼくは何だか変《へん》な気がする。
海が岬《みさき》で見えなくなった。松林《まつばやし》だ。また見える。次《つぎ》は浅虫《あさむし》だ。石を載《の》せた屋根《やね》も見える。何て愉快《ゆかい》だろう。

      *

青森の町は盛岡《もりおか》ぐらいだった。停車場《ていしゃじょう》の前にはバナナだの苹果《りんご》だの売る人がたくさんいた。待合室《まちあいしつ》は大きくてたくさんの人が顔を洗《あら》ったり物《もの》を食べたりしている。待合室で白い服《ふく》を着《き》た車掌《しゃしょう》みたいな人が蕎麦《そば》も売っているのはおかしい。

      *

船はいま黒い煙《けむり》を青森の方へ長くひいて下北半島《しもきたはんとう》と津軽《つがる》半島の間を通って海峡《かいきょう》へ出るところだ。みんなは校歌をうたっている。けむりの影《かげ》は波《なみ》にうつって黒い鏡《かがみ》のようだ。津軽半島の方はまるで学校にある広重《ひろしげ》の絵のようだ。山の谷がみんな海まで来ているのだ。そして海岸《かいがん》にわずかの砂浜《すなはま》があってそこには巨《おお》きな黒松《くろまつ》の並木《なみき》のあ
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