まざまの形、とうがらしや、臼《うす》や、鋏《はさみ》や、赤や白や、実にさまざまの学生のばけものがぎっしりです。向うには大きな崖《がけ》のくらいある黒板がつるしてあって、せの高さ百尺あまりのさっきの先生のばけものが、講義をやって居りました。
「それでその、もしも塩素が赤い色のものならば、これは最も明らかな不合理である。黄色でなくてはならん。して見ると黄色という事はずいぶん大切なもんだ。黄という字はこう書くのだ。」
先生は黒板を向いて、両手や鼻や口や肱《ひじ》やカラアや髪の毛やなにかで一ぺんに三百ばかり黄という字を書きました。生徒はみんな大急ぎで筆記帳に黄という字を一杯《いっぱい》書きましたがとても先生のようにうまくは出来ません。
ネネムはそっと一番うしろの席に座《すわ》って、隣《とな》りの赤と白のまだらのばけもの学生に低くたずねました。
「ね、この先生は何て云うんですか。」
「お前知らなかったのかい。フゥフィーボー博士さ。化学の。」とその赤いばけものは馬鹿《ばか》にしたように目を光らせて答えました。
「あっ、そうでしたか。この先生ですか。名高い人なんですね。」とネネムはそっとつぶやきながら自分もふところから鉛筆《えんぴつ》と手帳を出して筆記をはじめました。
その時教室にパッと電燈《でんとう》がつきました。もう夕方だったのです。博士が向うで叫んでいます。
「しからば何が故《ゆえ》に夕方緑色が判然とするか。けだしこれはプウルウキインイイの現象によるのである。プウルウキインイイとはこう書く。」
博士はみみずのような横文字を一ぺんに三百ばかり書きました。ネネムも一生けん命書きました。それから博士は俄かに手を大きくひろげて
「げにも、かの天にありて濛々《もうもう》たる星雲、地にありてはあいまいたるばけ物律、これはこれ宇宙を支配す。」と云いながらテーブルの上に飛びあがって腕《うで》を組み堅く口を結んできっとあたりを見まわしました。
学生どもはみんな興奮して
「ブラボオ。フゥフィーボー先生。ブラボオ。」と叫《さけ》んでそれからバタバタ、ノートを閉じました。ネネムもすっかり釣《つ》り込《こ》まれて、
「ブラボオ。」と叫んで堅く堅く決心したように口を結びました。この時先生はやっとほんのすこうし笑って一段声を低くして云いました。
「みなさん。これからすぐ卒業試験にかかります。一人ずつ私の前をお通りなさい。」と云いました。
学生どもは、そこで一人ずつ順々に、先生の前を通りながらノートを開いて見せました。
先生はそれを一寸見てそれから一言か二言質問をして、それから白墨《はくぼく》でせなかに「及」とか「落」とか「同情及」とか「退校」とか書くのでした。
書かれる間学生はいかにもくすぐったそうに首をちぢめているのでした。書かれた学生は、いかにも気がかりらしく、そっと肩をすぼめて廊下《ろうか》まで出て、友達に読んで貰《もら》って、よろこんだり泣いたりするのでした。ぐんぐんぐんぐん、試験がすんで、いよいよネネム一人になりました。ネネムがノートを出した時、フゥフィーボー博士は大きなあくびをやりましたので、ノートはスポリと先生に吸い込まれてしまいました。先生はそれを別段気にかけるでもないらしく、コクッと呑《の》んでしまって云いました。
「よろしい。ノートは大へんによく出来ている。そんなら問題を答えなさい。煙突《えんとつ》から出るけむりには何種類あるか。」
「四種類あります。もしその種類を申しますならば、黒、白、青、無色です。」
「うん。無色の煙《けむり》に気がついた所は、実にどうも偉《えら》い。そんなら形はどうであるか。」
「風のない時はたての棒、風の強い時は横の棒、その他はみみずなどの形。あまり煙の少ない時はコルク抜《ぬ》きのようにもなります。」
「よろしい。お前は今日の試験では一等だ。何か望みがあるなら云いなさい。」
「書記になりたいのです。」
「そうか。よろしい。わしの名刺《めいし》に向うの番地を書いてやるから、そこへすぐ今夜行きなさい。」
ネネムは名刺を呉《く》れるかと思って待っていますと、博士はいきなり白墨をとり直してネネムの胸に、「セム二十二号。」と書きました。
ネネムはよろこんで叮寧《ていねい》におじぎをして先生の処《ところ》から一足退きますと先生が低く、
「もう藁《わら》のオムレツが出来あがった頃《ころ》だな。」と呟《つぶ》やいてテーブルの上にあった革《かわ》のカバンに白墨のかけらや講義の原稿《げんこう》やらを、みんな一緒《いっしょ》に投げ込んで、小脇《こわき》にかかえ、さっき顔を出した窓からホイッと向うの向うの黒い家をめがけて飛び出しました。そしてネネムはまちをこめた黄色の夕暮《ゆうぐれ》の中の物干台にフゥフィーボー博士が無事に
前へ
次へ
全16ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮沢 賢治 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング