レの花の咲いた野原があったでしょう。実にそれはネパールの国からチベットへ入る峠《とうげ》の頂だったのです。
 ネネムのすぐ前に三本の竿《さお》が立ってその上に細長い紐《ひも》のようなぼろ切れが沢山《たくさん》結び付けられ、風にパタパタパタパタ鳴っていました。
 ネネムはそれを見て思わずぞっとしました。
 それこそはたびたび聞いた西蔵《チベット》の魔除《まよ》けの幡《はた》なのでした。ネネムは逃《に》げ出しました。まっ黒なけわしい岩の峯《みね》の上をどこまでもどこまでも逃げました。
 ところがすぐ向うから二人の巡礼《じゅんれい》が細い声で歌を歌いながらやって参ります。ネネムはあわててバタバタバタバタもがきました。何とかして早くばけもの世界に戻《もど》ろうとしたのです。
 巡礼たちは早くもネネムを見つけました。そしてびっくりして地にひれふして何だかわけのわからない呪文《じゅもん》をとなえ出しました。
 ネネムはまるでからだがしびれて来ました。そしてだんだん気が遠くなってとうとうガーンと気絶してしまいました。
 ガーン。
 それからしばらくたってネネムはすぐ耳のところで
「裁判長。裁判長。しっかりなさい、裁判長。」という声を聞きました。おどろいて眼を明いて見るとそこはさっきのクラレの野原でした。
 三十人の部下たちがまわりに集まって実に心配そうにしています。
「ああ僕はどうしたんだろう。」
「只今《ただいま》空から落ちておいででございました。ご気分はいかがですか。」
 上席判事が尋《たず》ねました。
「ああ、ありがとう。もうどうもない。しかしとうとう僕は出現してしまった。
 僕は今日は自分を裁判しなければならない。
 ああ僕は辞職しよう。それからあしたから百日、ばけものの大学校の掃除《そうじ》をしよう。ああ、何もかにもおしまいだ。」
 ネネムは思わず泣きました。三十人の部下も一緒に大声で泣きました。その声はノンノンノンノンと地面に波をたて、それが向うのサンムトリに届いたころサンムトリが赤い火柱をあげて第五回の爆発をやりました。
「ガアン、ドロドロドロドロ。」
 風がどっと吹いて折れたクラレの花がプルプルとゆれました。〔以下原稿なし〕



底本:「ポラーノの広場」新潮文庫、新潮社
   1995(平成7)年2月1日発行
   1997(平成9)年5月25日3刷
底本の親本
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