《にわとり》でも、なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣《かげろう》のごときはあしたに生れ、夕《ゆうべ》に死する、ただ一日の命なのだ。みんな死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬのにきまってる。」
「はあ。」豚は声がかすれて、返事もなにもできなかった。
「そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養って来た。大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずいぶん大事にしたはずだ。お前たちの仲間もあちこちに、ずいぶんあるし又私も、まあよく知っているのだが、でそう云っちゃ可笑《おか》しいが、まあ私の処《ところ》ぐらい、待遇《たいぐう》のよい処はない。」
「はあ。」豚は返事しようと思ったが、その前にたべたものが、みんな咽喉へつかえててどうしても声が出て来なかった。
「でね、実は相談だがね、お前がもしも少しでも、そんなようなことが、ありがたいと云う気がしたら、ほんの小さなたのみだが承知をしては貰《もら》えまいか。」
「はあ。」豚は声がかすれて、返事がどうしてもできなかった。
「それはほんの小さなことだ。ここに斯《こ》う云う紙がある、この紙に斯う書いてある。死亡承諾書、私|儀《ぎ》永々|御恩顧《ごおんこ》の次第《しだい》に有之候儘《これありそうろうまま》、御都合《ごつごう》により、何時《いつ》にても死亡|仕《つかまつ》るべく候年月日フランドン畜舎《ちくしゃ》内、ヨークシャイヤ、フランドン農学校長|殿《どの》 とこれだけのことだがね、」校長はもう云い出したので、一瀉千里《いっしゃせんり》にまくしかけた。
「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔《いさぎよ》く、いつでも死にますと斯う云うことで、一向何でもないことさ。死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要《い》らないよ。ここの処へただちょっとお前の前肢《まえあし》の爪印《つめいん》を、一つ押しておいて貰いたい。それだけのことだ。」
豚は眉《まゆ》を寄せて、つきつけられた証書を、じっとしばらく眺《なが》めていた。校長の云う通りなら、何でもないがつくづくと証書の文句を読んで見ると、まったく大へんに恐《こわ》かった。とうとう豚はこらえかねてまるで泣声でこう云った。
「何時にてもということは、今日でもということですか。」
校長はぎくっとしたが気をとりなおしてこう云った。
「まあそうだ。けれども今日だなんて、そんなことは決してないよ。」
「でも明日でもというんでしょう。」
「さあ、明日なんていうよう、そんな急でもないだろう。いつでも、いつかというような、ごくあいまいなことなんだ。」
「死亡をするということは私が一人で死ぬのですか。」豚は又《また》金切声で斯うきいた。
「うん、すっかりそうでもないな。」
「いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」豚は泣いて叫《さけ》んだ。
「いやかい。それでは仕方ない。お前もあんまり恩知らずだ。犬|猫《ねこ》にさえ劣《おと》ったやつだ。」校長はぷんぷん怒り、顔をまっ赤にしてしまい証書をポケットに手早くしまい、大股《おおまた》に小屋を出て行った。
「どうせ犬猫なんかには、はじめから劣っていますよう。わあ」豚はあんまり口惜《くや》しさや、悲しさが一時にこみあげて、もうあらんかぎり泣きだした。けれども半日ほど泣いたら、二晩も眠らなかった疲《つか》れが、一ぺんにどっと出て来たのでつい泣きながら寝込《ねこ》んでしまう。その睡《ねむ》りの中でも豚は、何べんも何べんもおびえ、手足をぶるっと動かした。
ところがその次の日のことだ。あの畜産の担任が、助手を連れて又やって来た。そして例のたまらない、目付きで豚をながめてから、大へん機嫌《きげん》の悪い顔で助手に向ってこう云った。
「どうしたんだい。すてきに肉が落ちたじゃないか。これじゃまるきり話にならん。百姓《ひゃくしょう》のうちで飼《か》ったってこれ位にはできるんだ。一体どうしたてんだろう。心当りがつかないかい。頬肉《ほおにく》なんかあんまり減った。おまけにショウルダアだって、こんなに薄《うす》くちゃなってない。品評会へも出せぁしない。一体どうしたてんだろう。」
助手は唇《くちびる》へ指をあて、しばらくじっと考えて、それからぼんやり返事した。
「さあ、昨日の午后《ごご》に校長が、おいでになっただけでした。それだけだったと思います。」
畜産の教師は飛び上る。
「校長? そうかい。校長だ。きっと承諾書を取ろうとして、すてきなぶまをやったんだ。おじけさせちゃったんだな。それでこいつはぐるぐるして昨夜一晩寝ないんだな。まずいことになったなあ。おまけにきっと承諾書も、取り損《そこ》ねたにちがいない。まずいことになったなあ。」
教師は実に口惜しそうに、しばらくキリキリ歯を鳴らし腕《うで》を組んでから又云った。
「えい、仕方ない。窓をすっかり明けて呉《く》れ。それから外へ連れ出して、少し運動させるんだ。む茶くちゃにたたいたり走らしたりしちゃいけないぞ。日の照らない処を、厩舎《きゅうしゃ》の陰《かげ》のあたりの、雪のない草はらを、そろそろ連れて歩いて呉れ。一回十五分位、それから飼料をやらないで少し腹を空《す》かせてやれ。すっかり気分が直ったらキャベジのいい処を少しやれ。それからだんだん直ったら今まで通りにすればいい。まるで一ヶ月の肥育を、一晩で台なしにしちまった。いいかい。」
「承知いたしました。」
教師は教員室へ帰り豚はもうすっかり気落ちして、ぼんやりと向うの壁《かべ》を見る、動きも叫びもしたくない。ところへ助手が細い鞭《むち》を持って笑って入って来た。助手は囲いの出口をあけごく叮寧《ていねい》に云ったのだ。
「少しご散歩はいかがです。今日は大へんよく晴れて、風もしずかでございます。それではお供いたしましょう、」ピシッと鞭がせなかに来る、全くこいつはたまらない、ヨークシャイヤは仕方なくのそのそ畜舎を出たけれど胸は悲しさでいっぱいで、歩けば裂《さ》けるようだった。助手はのんきにうしろから、チッペラリーの口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いてゆっくりやって来る。鞭もぶらぶらふっている。
全体何がチッペラリーだ。こんなにわたしはかなしいのにと豚は度々《たびたび》口をまげる。時々は
「ええもう少し左の方を、お歩きなさいましては、いかがでございますか。」なんて、口ばかりうまいことを云いながら、ピシッと鞭を呉れたのだ。(この世はほんとうにつらいつらい、本当に苦の世界なのだ。)こてっとぶたれて散歩しながら豚はつくづく考えた。
「さあいかがです、そろそろお休みなさいませ。」助手は又一つピシッとやる。ウルトラ大学生諸君、こんな散歩が何で面白《おもしろ》いだろう。からだの為《ため》も何もあったもんじゃない。
豚は仕方なく又畜舎に戻《もど》りごろっと藁《わら》に横になる。キャベジの青いいい所を助手はわずか持って来た。豚は喰《た》べたくなかったが助手が向うに直立して何とも云えない恐い眼で上からじっと待っている、ほんとうにもう仕方なく、少しそれを噛《か》じるふりをしたら助手はやっと安心して一つ「ふん。」と笑ってからチッペラリーの口笛を又吹きながら出て行った。いつか窓がすっかり明け放してあったので豚は寒くて耐《たま》らなかった。
こんな工合《ぐあい》にヨークシャイヤは一日思いに沈《しず》みながら三日を夢《ゆめ》のように送る。
四日目に又畜産の、教師が助手とやって来た。ちらっと豚を一眼見て、手を振《ふ》りながら助手に云う。
「いけないいけない。君はなぜ、僕の云った通りしなかった。」
「いいえ、窓もすっかり明けましたし、キャベジのいいのもやりました。運動も毎日叮寧に、十五分ずつやらしています。」
「そうかね、そんなにまでもしてやって、やっぱりうまくいかないかね、じゃもうこいつは瘠《や》せる一方なんだ。神経性営養不良なんだ。わきからどうも出来やしない。あんまり骨と皮だけに、ならないうちにきめなくちゃ、どこまで行くかわからない。おい。窓をみなしめて呉れ。そして肥育器を使うとしよう、飼料をどしどし押し込んで呉れ。麦のふすまを二升とね、阿麻仁《あまに》を二合、それから玉蜀黍《とうもろこし》の粉を、五合を水でこねて、団子にこさえて一日に、二度か三度ぐらいに分けて、肥育器にかけて呉れ給《たま》え。肥育器はあったろう。」
「はい、ございます。」
「こいつは縛《しば》って置き給え。いや縛る前に早く承諾書をとらなくちゃ。校長もさっぱり拙《まず》いなぁ。」
畜産の教師は大急ぎで、教舎の方へ走って行き、助手もあとから出て行った。
間もなく農学校長が、大へんあわててやって来た。豚は身体《からだ》の置き場もなく鼻で敷藁を掘《ほ》ったのだ。
「おおい、いよいよ急がなきゃならないよ。先頃《せんころ》の死亡承諾書ね、あいつへ今日はどうしても、爪判を押して貰いたい。別に大した事じゃない。押して呉れ。」
「いやですいやです。」豚は泣く。
「厭《いや》だ? おい。あんまり勝手を云うんじゃない、その身体《からだ》は全体みんな、学校のお陰で出来たんだ。これからだって毎日麦のふすま二升阿麻仁二合と玉蜀黍の、粉五合ずつやるんだぞ、さあいい加減に判をつけ、さあつかないか。」
なるほど斯《こ》う怒《おこ》り出して見ると、校長なんというものは、実際恐いものなんだ。豚はすっかりおびえて了《しま》い、
「つきます。つきます。」と、かすれた声で云ったのだ。
「よろしい、では。」と校長は、やっとのことに機嫌《きげん》を直し、手早くあの死亡承諾書の、黄いろな紙をとり出して、豚の眼の前にひろげたのだ。
「どこへつけばいいんですか。」豚は泣きながら尋《たず》ねた。
「ここへ。おまえの名前の下へ。」校長はじっと眼鏡《めがね》越しに、豚の小さな眼を見て云った。豚は口をびくびく横に曲げ、短い前の右肢《みぎあし》を、きくっと挙げてそれからピタリと印をおす。
「うはん。よろしい。これでいい。」校長は紙を引っぱって、よくその判を調べてから、機嫌を直してこう云った。戸口で待っていたらしくあの意地わるい畜産の教師がいきなりやって来た。
「いかがです。うまく行きましたか。」
「うん。まあできた。ではこれは、あなたにあげて置きますから。ええ、肥育は何日ぐらいかね、」
「さあいずれ模様を見まして、鶏やあひるなどですと、きっと間違いなく肥《ふと》りますが、斯う云う神経|過敏《かびん》な豚は、或《あるい》は強制肥育では甘《うま》く行かないかも知れません。」
「そうか。なるほど。とにかくしっかりやり給え。」
そして校長は帰って行った。今度は助手が変てこな、ねじのついたズックの管と、何かのバケツを持って来た。畜産の教師は云いながら、そのバケツの中のものを、一寸《ちょっと》つまんで調べて見た。
「そいじゃ豚を縛って呉れ。」助手はマニラロープを持って、囲いの中に飛び込んだ。豚はばたばた暴れたがとうとう囲いの隅《すみ》にある、二つの鉄の環《わ》に右側の、足を二本共縛られた。
「よろしい、それではこの端《はし》を、咽喉《のど》へ入れてやって呉れ。」畜産の教師は云いながら、ズックの管を助手に渡す。
「さあ口をお開きなさい。さあ口を。」助手はしずかに云ったのだが、豚は堅《かた》く歯を食いしばり、どうしても口をあかなかった。
「仕方ない。こいつを噛《か》ましてやって呉れ。」短い鋼《はがね》の管を出す。
助手はぎしぎしその管を豚の歯の間にねじ込《こ》んだ。豚はもうあらんかぎり、怒鳴《どな》ったり泣いたりしたが、とうとう管をはめられて、咽喉の底だけで泣いていた。助手はその鋼の管の間から、ズックの管を豚の咽喉まで押し込んだ。
「それでよろしい。ではやろう。」教師はバケツの中のものを、ズック管の端の漏斗《じょうご》に移して、それから変な螺旋《らせん》を使い食物を豚の胃に送る。豚はいくら呑《の》むまいとしても、どうしても咽喉で負けてしまい、その練ったものが胃の中
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